今日は、教会の小学生を連れて超教派キャンプに参加した時の思い出をまとめてみたいと思います。と言っても、それぞれのキャンプが良くなかったわけではありません。どんなにすばらしいキャンプでも、難しいことはあるのです。
ある時、私が超教派キャンプのゲストの一人としてお声をかけていただいたことがありました。せっかくだから、教会の小学生も連れて行きたいと思い、「よかったら、一緒にキャンプに行かない?」と小学生に声をかけた時、「行きたい」と言ってくれたのは、一年生の沙織ちゃん(以下、全て仮名)でした。(一年生でちょっと早いかな)と思ったのですが、「親から離れて過ごすのも慣れていますから」と言うお母さんのことばに励まされ、「賛美大好き、キャンプに行きたい」と言う沙織ちゃんのことばにも励まされ、一緒にキャンプに参加させていただきました。
ところでそのキャンプは、定員が二百名近い大規模なキャンプで、沙織ちゃんは、最初から圧倒されてしまいました。しかも、周りの小学生は、教会単位で参加している子どもが多いのに、沙織ちゃんは一人参加で、なかなか友だちもできないようでした。私もゲストということで、一緒に行動することはできませんでした。時々沙織ちゃんを探して、「楽しい?」と話しかけるのが精一杯でしたが、「うん…」いつも彼女は蚊の鳴くような声でうなずくだけでした。
また、当時の教会学校は、伝統的な静かなプログラムでしたが、そのキャンプのプログラムは、アップテンポの賛美、元気なダンス、運動会のようなゲームと、雰囲気が普段の教会学校と余りにも違い過ぎていました。キャンプのプログラム自体はよく計画されていてすばらしく、講師の先生のメッセージもパワフルで、私自身は色々と新しいことを教えられ恵まれました。でも、私がキャンパーと一緒にいられる時間がほとんどなくて、沙織ちゃんをケアすることはできませんでした。
そして、キャンプから帰ってすぐ、沙織ちゃんのお母さんから、びっくりするようなことを聞きました。「沙織が、キャンプがいやだった、と言っているの。もうキャンプには行きたくないって」確かに教会のキャンプは参加者も少なく、ほとんどみんなが知っている友だちで、スタッフの先生方も保護者の方々で、そういう手作りキャンプのイメージと、いきなり飛び込んだ超教派キャンプのイメージは余りにも大きく違っていたのでしょう!私は、(内容の良くわからないキャンプに誘わなければよかった)と思い、本当に沙織ちゃんに申し訳なく思いました。
それから数年後、今度は、また違う超教派のキャンプに小学生を連れていく機会がありました。前の経験を生かして、今回は五人の小学生、しかも兄弟も一組、学年も二年生から六年生、同じ学年の子どもたちもいます。私も奉仕はなく、付き添いに徹することができ、今度こそ子どもたちも充分キャンプを満喫できるだろうと思いました。
ところが、その超教派キャンプでは、同じ教会の子ども同志が固まらないようにという配慮のもと、同じ教会の子どもたちは別々の部屋に分かれ、グループもバラバラになっていました。(しかも私はそれを知らず、「きっと一緒の部屋だよ」と気休めを言っていました。)違うグループになったことを知った子どもたちは、顔色が曇り、すっかり固まってしまいました。
最初の日の夕食の時、六年生の健吾君が、私の所に来て、目を潤ませながら「もう家に帰りたい。ご飯食べたら帰る。」と言い出した時には、私の心臓が凍るようでした。周りのキャンパーたちは、同じ条件であるのに、新しいお友だちに溶け込んで楽しそうに笑っているように見えます。(どうして、うちの教会の子どもたちはこんなに人見知りなの?)私はすっかり気が重くなりました。取りあえずは、「今日はもう電車がないの。明日からはきっと、みんなと慣れて楽しくなれるよ」と言い聞かせて、祈るような気持ちで送り出したのを覚えています。
その日の夜だったでしょうか。夜、寝ようとすると、「トントン」と音がします。戸を開けると、今度は二年生の信也君が部屋から脱走?して、私の部屋の前に立っていました。「どうして、ここがわかったの?」私は驚きました。「キャンプつまらない。この部屋で寝てもいい?」ああ!私たちの教会のキャンプでは、こじんまりとした施設で、眠れない子どもたちが部屋を移動したこともあったのです。でも、この超教派のキャンプでは、しっかりとカウンセラーの方々がいて、組織的に運営されているのに、小学生が脱走!なんてしたら、大変なことになるでしょう。「ダメ。お部屋に戻らないと、先生が心配するよ」信也君と部屋に戻りながら、私は、子どもたちがキャンプの最後までみんなと一緒に楽しく過ごせるように、心からお祈りしました。(当時の教会のキャンプは一泊二日でしたが、その超教派キャンプは三泊四日で、彼らにとっては特に長く感じられたのかもしれません。)
感謝なことに、参加した五人のうち三人はそのキャンプで信仰がはっきりして、洗礼に導かれました。キャンプから帰る頃には、友だちも出来て、それなりに楽しそうでした。
けれども、普段教会のこじんまりしたキャンプに慣れている彼らにとって、外部からたくさんの小学生が参加する超教派のキャンプに参加するのは、非常にハードルが高いことだ、ということを私は切実に感じました。
また別の機会に、少しこじんまりとした別の超教派の子どもキャンプに奉仕者として参加したことがあります。その時は小学生の卓也君と参加しました。そのキャンプでは、最後にキャンプファイアーがあって、手を挙げる形で信仰決心が募られ、一人一人がカウンセラーとお祈りするという流れになっていました。そういう形式も、教会のキャンプとは違っていたので、卓也君も驚いたのかもしれません。「どうして、みんなキャンプファイアーの時に同じ祈り(イエス様を信じる祈り)をしなきゃいけないの?」と聞かれた時には、信仰決心を導くのが当たり前?と思っていた私の心にチャレンジを与えてくれました。
小学生は、感受性が強く、思ったことをずけずけ言ってくれるので、彼らのことばから多くのことを教えられます。日頃、どうしても教師目線で考えてしまいますが、子どもたちの感性を大事にしていきたいと思います。(この原稿を書いている時、ノーベル賞に山中教授が選ばれました。私は、山中教授の「90%の失敗があるから、後の10%の成果がある」ということばに非常に励まされました。)
(聖書の光172号)