よく、「教会で待っているより、出て行って伝道を」と言われます。でも、どこへ、どうやって出て行けばいいのでしょうか。
165号で紹介させていただいたように、教会で以前、児童文庫をやっていた頃、文庫に新しいご家族がいらっしゃることは、余りありませんでした。小学校前のちらし配りも、クリスマスやイースターの時とごく限られていました。それで、「普通の時にも地域の子どもたちを誘いたい」ということで、公園伝道にチャレンジすることになりました。
最初は、CS教師のメンバーで、月一回土曜日に公園伝道にチャレンジしました。青年スタッフがギターやゲームで熱心に応援してくれました。でも長続きしなかったのは、日曜日の教会学校に礼拝、そして同じメンバーで公園伝道、それプラス青年会というのは、余りにハード過ぎたのかもしれません。学生のバイトや授業、その他のスケジュールともバッティングして、うまくいきませんでした。
ならば、青年のCS教師以外で…別の協力者を捜すことになりました。でも、CSスタッフを募集するのも簡単でなく、166号で紹介した親子ナースリーのスタッフを御願いするのも難しかったのですが、公園に出て行って体を張って遊んでくださるボランティアを見つけるのは、それ以上に大変でした。
それで、毎回すごいプログラムを予定していくのでなく、とにかく土曜日の午後、近所の子どもたちと気軽に公園に遊びに行くことにしました。「一緒に遊ぼう」と声をかけて、子どもたちの顔と人数、メンバーの顔ぶれを見てから、好きな遊びをし、最後の十数分にチャペルタイムをする、という流れで始めてみました。4人の婦人の方々が一月に1回なら、と協力してくださることになり、遊び道具やお菓子、参加カードなどを運んで協力してくださいました。メッセージは、紙芝居など、利用できるものは、何でも使いました。暗唱聖句のカードも配りました。何週間か続けて参加してくれる子どももいましたが、毎週のようにニューフェースのお友だちも来てくれたように思います。参加者は毎回、数人から多くても20人位だったでしょうか。
外で遊ぶのは楽しく、遊びもかくれんぼやだるまさんが転んだなどの伝統遊び、大縄回し、水風船投げ、凍りおに、リレー、竹とんぼ飛ばしなど、素朴で簡単に遊べるものが中心でした。遊ぶのは楽しく、新しい子どもたちと知り合いになれたのもうれしかったのですが、課題もたくさん増えてきました。
まず、公園伝道しても、教会に結びつかない、ということで、1時間半位遊んで、教会でおやつタイムを持つことにしました。すると、子どもたちは喜んだのですが、「公園に遊びに行ってもいいけど、教会に行ったらダメと言われた」と、お母さんにしかられる子どもたちもでてきました。中には、「ちらしを親に見せたらしかられるので、パンツの間に入れて持ち帰って捨てた」と言った1年生の子どももいて、胸が痛みました。私も逆の立場で、子どもが公園に遊びに行って、知らない宗教団体に誘われたら不安に思うだろうと思い、できる限り、お母さん方にあいさつして回りました。(当時は、ちょうどオウム真理教事件が表ざたになり、全ての宗教団体に対して厳しい目が注がれていました。)
長男と同じクラスの友だちも来てくれたのですが、お母さんは「いつもお世話になってありがとう」と好意的ながら、「お父さんにたたかれた」など、複雑な家庭の事情も見えてきました。後で聞いたら、そのご家族はS学会の信者だったそうです。地域のご家庭の子どもたちに対するミニストリーは、ご家族の建前と本音があるので、ご家族と個人的に親しくなって、十分理解していただかないと危うい!とつくづく思いました。
また、CSに来てくれるクリスチャンホームの女子の友だちを誘ったら、最初は喜んで来てくれたのですが、そのうち、友だち同士の関係が微妙にこじれたこともありました。やがて、その友だちが「あんた、あんな所(公園)に行っているんでしょ?」とそれが原因でいじめられ、仲間はずれになった、と聞いた時には、ことばを失いました。小学校上級生の女子同士の関係がどんなに微妙で、くずれやすいものであるのかを痛感しました。「とにかく1人でも多くの子どもたちに福音を聞いてほしい」という目的で始めたのですが、現実の厳しさを思い知らされました。ただ多くの人数が来てくれるのが祝福ではなく、主が選んで毎回用意しておられる方々が来て下さるのが一番の感謝であることをつくづく感じました。
あの時公園に遊びに来てくれていたクリスチャンホームの小学生の中には、今保育師として就職していたり、学生会のリーダーとして奉仕していたり、教会のバンドの奉仕をしている人たちがいます。神様が成長させてくださったことを感謝しています。あの時、公園に遊びに来てくれた地域の子どもたちの中には、信仰を持って、教会につながっている人はいません。教会も会堂建設によって引越してしまいました。蒔かれた種がどこで芽を出しているか、私にはわかりませんが、神様に全てをお委ねしたいと思います。
現在、引越しした先の教会は、商店街に近く、近所の公園は閑散としていて、犬を散歩させている方々か、ホームレスのような方々が中心で、子どもたちはほとんど遊んでいません。定期的な公園伝道は、現在ストップしています。「すべてには時がある」と、機会が与えられていた時に奉仕させていただいて、よかったと思います。今は、夏休みに、水遊びのできる別の公園に行って、ちらし配りをしています。地味な働きですが、「出て行って」と言われた主の招きにお応えするために、これからも公園に出かけていきたいと思います。
(聖書の光 167号)