イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:18-20
これはイエス様の大宣教命令です。この中にキリスト教会の使命が、明確に打ち出されています。おゆみ野キリスト教会はこの箇所を理念として、今日まで教会形成を目指してきました。
ただ目指すということと実現しているということの間には開きがありまして、心がけていながらも、奮闘虚しく、うまくいかない事も多々あります。しかし、目指すことだけは相変わらずできますので、何度でも、気持ち新たに取り組み続けることができればと考えております。
1.「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」
まず、イエス様が主であります。天地の権威はイエス様のものです。イエス様はこの町で、この教会で、何をなさろうとしているのか。イエス様と親しく歩み、その声を聞き分け、従うよう、羊を養わなければなりません。世も、教会も、人間が中心になる傾向を持っています。そうではなく、イエス様だけがあがめられますように。信徒一人一人が、聖書を読み、祈る者となり、成長していかなければなりません。
また、説教の中心は、キリストの贖いに貫かれている必要があります。これは、礼拝でも、教会学校でも、とても大事なことです。カベナント神学校のブライアン・チャペル博士は、以下のように言っています。
「どの聖句を取り次ぐにしても、それをクリスチャンのメッセージとして、他と区別するために、欠かせないしるしがあります。十字架の上での恐るべき犯罪。すなわち贖いのメッセージです。これに相反してあるのが、ユダヤ教の会堂や、イスラム寺院で聞けるような、盗むなかれ。忠実であれ。悪いことをするなかれ。という道徳主義です。」
(Dr. Bryan Chapell 、CDテキスト「キリスト中心のメッセージの中核」より)
救い主を抜きにした道徳主義は、人間中心であり、他の宗教と何ら変わらない話になってしまいます。教会の主がイエス様であるならば、キリスト教会こそ、イエス様の贖いを中心に置いて語らなければなりません。
2.「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」
クリスチャンは、この世界に対し、福音宣教の使命を担っています。イエス様は御国の福音をのべ伝え、~あらゆるわずらいを直されました (マタイ4:23)。教会は福音を宣教するために、わずらいからの憩いの場を提供できるようにしています。ゴスペルや英会話、カフェ、ギター教室などのサイドドアを開催し、キリスト教会に入ったことすらない人々に、福音を分かち合おうとしています。そこからバイブルスタディや、礼拝に人々が導かれることを期待しています。
3.「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、」
クリスチャンが主にある交わりに加わることは大切です。人数が多くなればなるほど、小さなグループが重要になってきます。互いに愛し合いなさい、赦し合いなさい、という命令は、他のクリスチャンと共に、近く歩んでいなければ実現できません。教会は小グループに取り組んでいまして、なるべく小グループに参加するように促しています。
4.「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」
イエス様は、弟子たちに、御言葉を実践する礼拝者となるように命じています。日々霊とまことをもって神様を礼拝する礼拝者として歩むために、日曜礼拝が、聖霊様の助けが必要であると同時に、礼拝者にとって文脈化される必要があります。神様が安息日を定め、招いて下さっているのです。準備する側は、礼拝にエネルギーをかけ、整えなければなりません。なぜ礼拝にこのプログラムがあるのか、歌っている賛美はどういう意味なのか、この聖書箇所はなぜ自分と関わりがあるのか。クリスチャンではない人や、子どもや学生にも、これは神様に自分が招かれている礼拝である、私が礼拝者なのだとなるにはどうしたらよいのか。尽きない課題です。
5.「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
イエス様は、聖霊様によって、私たちと共に歩んでくださいます。イエス様は、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:37)と約束してくださっています。
聖霊様は、私たちを導いて下さり、イエス様と共に歩ませてくださいます。私たちは改革派神学に立つ教会です。私たちは間違いうるので、何度も御言葉に照らし合わせて、自分たちを改革し続けなければなりません。聖霊様は、私たちにイエス様の御心を教え、悔い改めに導き、間違う私たちを、何度もやり直させて下さるお方です。イエス様が共にいて、導いて下さるゆえに、私たちは自分たちの間違いや罪を認め、十字架を仰ぎ、再び取り組み続けていきたいのです。
子どもも大人も一人一人が、教会のお客さんになるのではなく、イエス様の弟子として歩むことになりますように。何をやっているのかよくわからない、「自分の教会」でもないところに友達を誘いはしません。自分が教会、自分がイエス様の弟子!となっていくことを願っております。
(2013年2月発行No.43掲載)