はじめに 私の経験から
「甲子園に出場し、プロ野球選手に!」。これが少年時代から追い続けた私の夢でした。教会付属の幼稚園で幼少期を過ごしたことで、両親がクリスチャンではないのにもかかわらず幼い時にキリスト教信仰に触れましたが、小学生になってから日曜日は私にとっては何よりも野球の日でした。
それでも教会学校からいつも夏のキャンプへの案内などが届けられ、そこに「待っているよ」という短いメッセージが記されていました。それを見るたびに「自分を待ってくれている人がいる」と嬉しい気持ちになったことをよく覚えています。それに幼稚園の同級生に牧師の息子がいたということもあって、教会はいつでも行ける場所として小学生なりに認識していました。野球がない日など年に数度教会に足を運んだ時に、幼稚園時代から知っている教会学校の先生方が小学生の男の子にとっては気恥ずかしいくらいに喜び、歓迎し、時には抱きしめてくれました。
この私の個人的な体験はとても小さなもので決して「教会教育理念」というものではありません。しかし、これらの経験は幼い私に教会とはどのような場所であるかを体験的に教えてくれた極めて実践的な「教会教育的出来事」であったと思います。
この経験から仮に「私にとって教会教育(またはキリスト教教育)とは何か」という問いを与えられるとすれば、その答えは色々あると思いますが、私は「一人の人間をかけがえのない人格として受け止め続ける教育」とまずは答えざるを得ません。このことは一人の牧師として教会に仕える中でいよいよ大きな具体的なチャレンジとして問いかけられていると思います。「今日における宣教とは何かを問い続けることなしに、キリスト教教育は成り立たない」(今橋朗「キリスト教教育と神学」)とするならば、多様化する社会の中で「一人の人間をかけがえのない人格として受け止め続ける」ことは今日における教会の宣教を問う上でも極めて大切なことだと私は思います。

キリストの体を形づくる
使徒パウロがコリント信徒の手紙一12章12節以下において、人間の体をたとえに使いながら教会について教えていることはよく知られていることです。私はこのパウロの教会論は、教会教育の理念を考える時の土台となるものだと思います。
パウロは「多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって、『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(Ⅰコリント12:20)と語っています。悲しいことですが、コリントの教会の中に「お前は要らない」、「お前たちは要らない」と力を持っている人や、お金持ちの人たちが、弱い立場に置かれている人を軽んじる現実があったのです。
これは、私たちの教会でも悲しいことですが、時々起こり得ることではないでしょうか?社会的な地位や身分が教会の中でもそのまま反映されたり、多数の者が少数の者を抑え込んだり、切り捨てたりすることが教会でも起こります。
しかし、パウロは、体の一つ一つの部分は神が御自分の望みのままに置かれた存在であり、体が体として成り立つには、不必要な部分がないばかりか、「他よりも弱く見える部分が、かえって必要」だと語ります。すべて体の部分が違う働きを担っていると語るのです。パウロはキリストの体なる教会は、そのようなものだと私たちに教えているのです。
パウロが体の例えを使って教えている大切なことは「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」ということです。これが一つの体というものであり、教会であるというのです。
それぞれの「違い」は、私たちにとって時として大きな問題となります。分かり合えず、傷つけあったりもします。事が大きくなれば、それこそ「分裂」ということだって起こり得ます。コリントの教会が実際そうであったように、それが私たちの抱える現実であり、教会の現実でもありましょう。しかし、だからこそ私たちは御言葉に耳を傾けなければならないのです。
「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました」(28節)。多種多様な賜物、働きがあってこそキリストの体なる教会なのです。「多様性の一致」という二律背反が「一つの霊をのませてもらった」者たちの中で成り立つ。それがキリストの体なる教会の場で起こることです。「教会教育は真のコイノニア(交わり)をめざす、キリスト者共同体で全うされる」(三浦正「教会教育の使命」)のです。教会こそ「一人の人間をかけがえのない人格として受け止め続ける」場として、困難を覚えつつも、そして悩みつつもそのことに取り組むのです。そこに教会の命があると言っても過言ではないでしょう。

子どもと共に守る礼拝
私は「多様性の一致」を考える時に、主日礼拝こそ実践の場であると考えています。私たちの教会では2005年4月から大人と子どもも一緒に主日礼拝をささげることにしました。一つの具体的なきっかけとして教会学校の子どもたちが少なくなり、しかも教会員の子どもだけという状態になったということがありました。それまでは10時半から始まる主日礼拝の前に教会学校の主日礼拝が行われる「伝統的スタイル」でしたが、2、3人の子ども、しかも教会員の子どもたちがあえて2、3人で「教会学校の礼拝」として独立して礼拝を守る意義をあまり感じなくなったのです。
その時に神学校のキリスト教教育の授業で「教会学校運動の前は、教会は礼拝を通して教会教育を行っていた」と聞いたことを思い出し、「礼拝の場こそ教会教育の最大の実践の場」ととらえ、主日礼拝を大人も子どもも一緒にささげる礼拝として始めました。
それまで大人たちだけで「静かに」、「粛々と」守っていた礼拝に、「ノイズ」が発生したというのが、子どもたちと一緒に礼拝を守り始めてまず、私たちが経験したことです。それまで当たり前であった「静寂」が、子どもたちと一緒に礼拝をささげることによって破られる経験をしたのです。子どもたちと一緒に礼拝をささげることを積極的に受け止める人がいれば、それに対して批判的な声も聞こえてきました。その中で私たちは「キリストにある教会共同体としてふさわしい礼拝はいかなる形か」と皆で問い続けながら、大人も、そして子どもも多少のストレスを感じながらも、礼拝を共にささげることをその都度選びとっていきました。「一人の人間をかけがえのない人格として受け止める」ことを毎週皆が一緒に礼拝をささげるという実践を通して教会のすべての者たちが味わったのだと思います。
あれから6年以上が経過しましたが、今では一緒に主日礼拝をささげることが私たちの教会では当たり前の形になりました。子ども説教や子どもたちの祈りに大人たちが教えられることもしばしばあります。教会の子どもたちは決して「将来の教会員予備軍」ではありません。子どもたちは「一人のかけがえのない人格」であり、教会という契約共同体に神によって招かれた「共に福音に従おうとしている仲間」として捉えることが大切です。
私たちの教会における教育のもっとも大切な場は、毎週の主日礼拝と言えるでしょう。大人と子どもが一緒に礼拝をささげるためには、子どもたちの人数や会堂の大きさなど現実的な制約もあることですが、大人と子どもが主日礼拝を共にささげることは教会教育の一つの具体的な実践の場であると私は確信しています。

おわりに
今回は限られた紙面の中ですので「教会教育」のある一面しか触れませんでしたし、固有の経験をシェアーしたにすぎません。「教育理念」という期待に添えているのか甚だ不安ですが、「一人に徹底的にこだわる」ことは教会教育の重要な理念であると、主イエスに従う一人として信じています。そして教会教育は常に「主イエスならどうされるだろうか」という問いによってその時、その時において練られ続けるものでありましょう。今、この時代に相応しい「教会教育」を共々に模索し続けてまいりましょう。

(2012年5月発行No.42掲載)

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