1 そもそも

 案外、人々は潜在的に、「さすがキリスト教だ」と感動したい、と思っているのかもしれません。本当に輝きを放つもの、この時代と世界のさまざまな課題に身をもって深く切り込んでくるような思考力と実行力を人々は求めているのではないかと感じることが多くなりました。そういう意味では、人々を教会に向かわせるより、教会から世界へと向かう私たちの実態が問われているのでしょう。

 そのためには、福音派の「救済論」をもっと豊かなものにする必要があると私は考えます。東京基督教大学教授の稲垣久和氏が賀川豊彦の神学について次のように述べておられました。「彼(賀川)の実践の働きの広がりは、当時のキリスト教会の理解をはるかに超えていた。その神学的背景は何だろうか。それは、贖罪の教理を『世界の回復』ないしは再創造の働きと結びつけたことであり、また世界の中に神の働きのダイナミズムを見た、そのようなタイプの自然神学にあると思われる。」

 A.マクグラス氏の『キリスト教神学入門』(教文館 2002年)では、モダニズムが「目的、計画、階層制、集中化、選択」ということばで表現される範疇に区分されるのに対して、ポストモダニズムは「遊び、偶然、無政府状態、拡散、組み合わせ」にまとめられるとし、時代が多様性に移行していることを明確にしています。このような移行期にあって、まさに今、教会自身がこの時代と世界にどう向きあうべきかを模索しているように感じてなりません。

つまりは、福音とはそもそも何か、教会とはそもそも何か、キリスト者とはそもそも何者か、を私たち自身が問い直さなければならないところに立っているのです。

 

2 多様化時代の教育の限界

 このような時代的背景を切り口として、教会での教育を考えてみます。

 育てるということは、罪と弱さを抱える「自分」に直面する営みです。逃げ出したいほどの悩みや疲れを伴い、現代社会の多様性や情報量の多さから、自分の抱く確信や方針など簡単に吹き飛ぶもみがらのようです。「神はほんとうに言われたのですか」(創世記3:1)の声をしりぞけ「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)とのみことばに歩むことは並大抵なことではありません。

 一方で、自分を妥協から守ろうとするあまりに、自分の今までのあり方や神学的な枠組みについて何も問い直せないような硬直に陥ってしまったとしたら、残念なことです。育てる側は確信や権威を失ってはならないという「りきみ」から、問い直し、模索する自由や揺らぎを否定してしまっては、新たな気づきや必要な変化から遠ざかることになります。

 つまり、「指導」とか「訓練」とか簡単に口にするけれども、多様性が求められる時代にあっては、この人のこのあり方は修正を加えていかなければならないものなのか、それともこちらが枠を広げて受け止めるべきものなのか、実に指針を定めにくいという現実があるわけです。

 マニュアルがあってはじめて、その人らしく生かされる人々もまたおられます。そういう人たちは、自由に、あなたらしく、といわれるほど不自由に感じる訳です。かと思うと、そんな人でもある部分では自由にさせてあげないと多大なストレスがかかってしまう場合もあるのです。

 

3 多様性におけるリーダーシップ

 では多様化時代に教育はどうあったらいいのでしょう。

 最近耳にすることが普通になってきた「多文化共生」ということばに注目します。このことばは、1995年の阪神大震災以降とくに使われ出しました。あの震災時に国籍や文化を越えた助け合いが行われ、それを契機に「多文化共生」という言葉が全国に広がったのでした。そしてNGO、NPOということばも日常化してきました。あの震災からこのような言葉が人々の間で使われ始めたのには意味があろうと思います。

 同じ震災を医師として自らも経験された精神科医、中井久夫先生が『災害がほんとうに襲った時 〜1995年1月神戸・阪神大震災下の精神科医たち〜』(みすず書房)に次のように書いておられます。「有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった。指示を待った者は何ごともなしえなかった。統制、調整、一元化を要求した者は現場の足をしばしば引っ張った。」

 これはとても興味深い発言です。これを私は教会に当てはめるなら、キリスト者の自立と教会同士のチームワーク、ネットワークと受け止めています。そして、このような動き方が今後の日本の将来を決めていくのではないかと考えています。

 聖書と教会の歴史から観ても、教会にはその「多様性」という性質がもともと備わっているはずです。それにもっと目をとめるべきではないでしょうか。そのために多様性という「めんどうくささ」に耐えうる力、その多様性をむしろ楽しみ、違うものたちとネットワークを作れる自由と世界観を身に付けなければなりません。

 ところが案外、いったんそういう様々な背景をかかえている人々がクリスチャンとなって「教会員」となると、その人々の背景は一気に飛び越されて、「集会出席」「献金」「奉仕」など、「教会員のてびき」(!)にもっていかれるようなところがあるように感じてしまいます。多文化・多様化の時代に対応する教会像、クリスチャン像、教会生活像がまだまだ神学的に整理されていない実情を垣間見ます。そのため、あの人はあのままでよいのか、クリスチャンになったのだからもっと変わるべきではないか、もっと指導を・・ということになります。特に、自分が若い時代から教会で訓練されて、自分の教会像、クリスチャン像、教会生活像をゆるぎないものとしてきた人ほど、違和感を感じるのだと思います。

 それにチャレンジするかのように、最近ではワールドカフェという会議の持ち方が注目を集めています。この会議のファシリテーターのための本も多く出版されるようになりました。重役会議などになれている方にはゆるい印象を与えると思いますが、これは自由で確かな対話(ダイアローグ)を求めている時代の姿です。議論ではなく、かといって雑談でもない。クリスチャンの若い世代にもこのようなものがとても意義を持つと感じています。多様な人々との対話を通して神と向き合いたい、自己意識をゆるやかに確かに変容したい、自分への使命を受け止めたい、という希求です。

 

結び

 ルカ福音書10章で、「たまたま」そこを通りかかったサマリヤ人が道ばたに倒れている人を助けるというたとえが主イエスによって語られています。そもそもけが人を助けるために旅をしていたのではありませんでした。よき隣人となるぞ、と意気込んでのビジョンも計画もなく、そのための準備もなく、ましてや予算もない中で、彼は「たまたま」という偶然の状況の中で愛を示した、というたとえです。

 この度の東日本大震災に関して、「想定外だった」「予想外だった」とのことばを多く耳にしてきました。そのことばの通りに、私自身も被災現場で立ち尽くしてしまいました。今もその被害の大きさに心が引き裂かれてしまっています。

 だからこそ、想定外、予想外の時にこそ、このたとえから「あなたも行って同じようにしなさい」という意味が深く響いてきます。私たちは聖霊が必ず働いて導かれることを信じて祈りつつ、主体的にならない限り、「たまたま」という偶然の状況でよき隣人になることなどできません。いつでも、誰にでも、予定が変わってでも・・・という「たまたま」おこる状況に対応できなければ、私たちは自分の目の前の必要にすら応えることもできない祭司やレビ人になってしまいます。

 私はこの国に、よき隣人となるキリスト者が多く出てくるようにと自戒を込めて祈り求めています。よき隣人となることこそが、教会の性質であり使命であると確信しているからです。教会教育もこの視点から取り組まれるべきだと考えています。

(2011年9月発行No.41掲載)

 

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