はじめに
筆者は牧師になる以前、12年間ほど児童館関係の仕事をしていました。児童館とは0歳~18歳までの児童に「遊び」を通して健全育成を目差す厚生労働省管轄の児童福祉施設です。筆者は、厚生省(当時)の外郭団体に勤務し、児童館職員向けの研修会で遊び経験の大切を指導する仕事をしていました。そんなある日、一人の女の子との出会いが、筆者に大きな影響を与えたのです。それは、埼玉県のある児童館を訪問した時のこと。小学校一年生の女の子が学校から帰ってきました。そしてその子は、プレイルームでトランポリンを始めました。ピョンピョン飛びながら、初対面の筆者に「私のパパは何歳だと思う。」と尋ねます。「34歳くらいかな?」と答えると、「パパは、私が産まれてすぐに死んじゃったから27歳のままなんだ。」と言うのです。何と答えていいのやら、筆者も少し前に父を天に送っていたので、「僕のお父さんも、すこし前に天国にいっちゃったんだ。」と答えると、「ふーん」と言って飛び続けています。しかし、その子はそれからお母さんが迎えに来るまで筆者から離れません。一度お母さんが迎えに来て「バイバイ」と帰ったはずなのに、すぐに戻ってきて、「あと5分、いていいって。」と、事務室で反省会を始めていた筆者の背中におぶさってくつろいで行きました。それは、同じ痛みを持つ者同士の人格的な響き合いと呼べるものだった気がします。そしてこの経験は、やがて筆者の心の中で繰り返し語りかける声となり、「子ども達に遊びを提供する働きなら誰でもできる。神様は私に、子ども達に福音を届けるよう召しておられるのではないか。」と、献身のきっかけの一つとして膨らんでいきました。子どもにとって楽しく豊かな経験は大切です。しかし、その土台に神様との出会いが不可欠です。土台が無いまま、どんなに楽しい経験を積んでも、イエス様の救いに与ることはできません。みことばを通して信仰が与えられ、どんな人生の困難の先にも、主が確かに導いてくださる希望と救いがあることを知ってほしい。それが、筆者の心の底にある思いです。
1.感謝と喜びを共有する人格的交わり
a.人格的交わりの中で
教会教育について大切に思うことの一つは、人格的な交わりということです。先の児童館での出会いもそうなのですが、私たちはいのちということについて、或いは弱さということについて、年齢を超えて響き合えるのではないでしょうか。知識として聖書を学ぶのか、聖書を通して人格的に交わろうとするのか、大きな違いがあるのです。イエス様が、私たち信仰者の内に、日々人格的に関って語りかけ、励まし、強めていてくださるとすれば、私たちが求道中の方と関る時、私の内に働いてくださるイエス様が、その方に関わり始めてくださるのです。ですから、教会教育を考える時、生けるイエス様についての証しはとても大切だと思います。主が、私たちの日常生活において、どのように働きかけ、赦し続け、導いて下さっているかが証しされることを通して、イエス様は人と人との間に、まさに人格的にお立ちになって働きかけて下さいます。そうした意味において、教会学校教師の日常的な整えは大切です。また、日曜日の教会学校だけでは時間の制約がありますので、ウィークデーの活動や個人クラス、キャンプ活動など、人格的に交わりあっていこうとすることが大切ではないかと考えています。
b.親と教会の協働の祈り
筆者は、教会教育が非日常的であってはならないと考えます。ですから、教会と家庭が分離していてはならず、信仰継承のために、教会と家庭が一緒に祈り取り組む大切さを感じています。そこで、当教会では小学生が信仰を決心し受洗の学びに入る時、クリスチャンである親と子で、一週間に一度、家庭で学びの時間をもつように指導します。そのために親子で学べるテキストを独自に用意し、牧師は、親にテキストの用い方を指導します。このような時間を持つことで、親子の密着した関係から、主に愛されている兄弟姉妹の関係となり、お互いを受け入れあうことができるように成長させられるのです。親も、たくさんの失敗や弱さを打ち明けながら、それでも導いてくださる主を喜びをもって証しでき、お互いのために祈り合える。これは、筆者自身が子育ての中で経験した、何にもかえることのできない宝物の経験です。テモテが祖母ロイス、母ユニケから信仰を伝えられたように、日常生活の真ん中に、イエス様がみことばとして語り掛けて下さる時、主との人格的な交わりが始まります。
もう一つの実践として、子ども達は小学校一年生になると主日礼拝に一緒に出席します。それは、親が心から神様を礼拝する姿を、子どもが共にする大切さを思うからです。礼拝のために、子ども一人ひとりの『礼拝ファイル』が作られ、その日の中心聖句の穴埋め問題や、質問への回答、筆者がメッセージの中で与える絵の課題を描くなどし、できるだけ飽きずに、みことばを心に聞く習慣を育てようとしています。そのファイルは、教会学校の先生がコメントを入れて返しますが、ファイルを家に持ち帰り、親子で分かち合う場面も見受けられます。その他、年に二回(7月と2月)、CS父母会(懇談とお楽しみ会)をもち、教会に対する理解と信頼を深めていただこうとも働きかけています。
c.教会員を巻き込んでの洗礼準備
大人の洗礼準備では、共に学んでくださる先輩クリスチャンを最低一人以上お願いします。最近では洗礼準備会をオープンにし、既にクリスチャンである方も学びたい時にいつでも学べるようにしています。そうすることで、現実の信仰生活の戦いも含めた証し会へと深まっていきます。そんな姿は、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と讃美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ3:16)の実践のように思えます。また、「私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ書4:13)とあるように、頭ではなく人格的な交わりの中でイエス様を経験させていただく時、信仰の一致と教会の成長が与えられていくのだと実感します。
2.地域に生きる教会
こうした教会内の活動の他に、当教会では、日曜日以外のプログラムを実施しています。0歳~1歳半までの親子が集う「オリーブのひろば」は第三金曜日の午前中。1歳半~就園前までの親子の集い「なかよしピッピ」は、第二、四火曜日の午前中です。また、幼児から中学生までの子ども英会話が週に三日。小学生のための集い「らみいサタデークラブ(らみサタ)」は第三土曜日です。また、らみサタから発展した中学生集会「ジョナタンクラブ」もこの春に立ち上がりました。さらに、地域の三教会が協力して立ち上げたサッカーチームも三年目を迎えようとしています。これらの活動から主日礼拝に繋がる人はまだ少ないのですが、教会教育を広く捉えていくことが大切ではないかと考えます。教会が地域に立てられているのは福音を届けるためであり、神の国の平安を証するためです。イエス様が人々の生活の中に来てくださったように、教会も人々の生活の必要に開かれていたいと思います。しかし、とても教会のマンパワーだけでは足りません。そこで、地域の方々に「私に水を飲ませてください。」と言わんばかりに助けを求めます。すると、市や市の社会福祉協議会をはじめ、地域の方々が実によく協力してくださいます。オリーブのひろばについては、保健士さんが検診や家庭訪問のたびに、必要な方に案内チラシを渡してくださり、三回に一度は来会し、お母さん方の悩みや質問に答えてくださいます。また、地域でお世話になっている大工さんは、らみサタで木工教室をしてくださったり、社会福祉協議会の職員さんが、シニア体験、車椅子体験などのために協力もしてくださいます。また、教会に慣れたお父さんたちも、毎年恒例の飢餓対策チャリティーバザーや餅つき大会などに協力してくださいます。このように、地域を神様の働きの中に巻き込んでいくことも教会教育の大切な側面と考えています。
3.受け手から与え手に
神様の愛に招き続けられた子ども達が青年に育ってくると、今までは受け手だった彼らが、今度は福音の与え手、つまり奉仕者として働きたくなってきます。今年度、クリスチャンの中高生を中心に、月に一度、教会学校の礼拝を任せることにいたしました。すると、子ども達自ら、母の日、父の日には手作りカードを作り、劇をつくり、主日の夕方まで讃美の練習をし、主の器として輝き始めたのです。そして、このような青年たちの姿が、続く小学生たちの憧れとなっているようです。
ここまでをまとめると、人格的交わり、家庭との協働、地域を巻き込むという三つの柱を、教会教育を実践する上での三本柱として挙げることができましょう。
イエス様が私たちのために汗も涙も血潮も流してくださった姿に倣い、日常の生活の中で導き続けてくださる主を証し、主を喜び合いながら共に育てられていきたいと願っています。
(2006年10月発行 レインボーNo.35掲載)