私は牧師の子として育った。厳格で真面目な両親に育てられ、少々性格的にも窮屈な人間に育ったと思うが、それも恵みだったと思う。私が教会教育に関心を持ち、重荷を与えられて歩んでいるのにも私の育ちが大きな影響を与えている。その意味でも、自分のこれまでの歩みを振り返りながら、自分が考えさせられている教会教育の理念について整理してみたいと思っている。

 

1.聖書は楽しい

 私の育った家庭では小さいときから家庭礼拝を守り続けていた。紆余曲折もあったかもしれないし、形だけだったこともあったかもしれないが、小さいうちは聖書物語や子ども向けの信仰書、大きくなってからは聖書そのものを読んでひと言ずつお祈りする。今、自分もまた子どもたちと家庭礼拝を持ち、少しずつ読んできた聖書通読も二回目に入っている。

 私の母は子どもたちが上手に聖書を読むようにし向けてくれた。私は小学校二年生の時から聖書通読を続けている。今、牧師になって、このことがどれだけ自分にとって大きな恵みだったかを思う。

 教会学校の先生たちにも恵まれたが、正直に言うと、教会学校のお話はつまらなかった。牧師や役員の子たちは本当に面倒だろうと思う。つまらないと平気でおもいっきり退屈そうな顔をする。視聴覚教材には興味があったけれど、お話自身はあまり期待していなかった。何と言っても礼拝を守らないと地獄に行ってしまうから、礼拝は守るけれど・・・。

 ところが自分も今度、教会学校の教師会に入るようになって驚いた。教師たちの間では、時にクリスチャンホームの子どもたちが問題児扱いされている。教会ズレして手に負えない。冗談じゃない。子どもたちは親と一緒に強いられて、教会に来ている。それなのに、ああ、それなのに、私は思う。子どもが聖書のお話に飽きてしまったら、それは基本的には教師が悪い。本来、聖書の言葉はワクワクドキドキするようなすばらしい神さまのメッセージなのに、それをつまらなくしてしまうのは教師の力不足である。聖書は楽しい。聖書の言葉を聞くのに聴き手に忍耐を強いるようになったらおしまいだ。私はそのような思いで礼拝のメッセージをするし、また子どもたちの前に立ちたいと思っている。

 

2.小さくても・・・時を逃さない

 私は小さいころから皆勤賞をもらっていた。まあ、どこに行くでもない、自分の家にみんなが来てくれるのだからそうだろう。そして、小さいころから信仰の話や、イエスの再臨の話を聴いた。「イエスさまが帰ってこられたときにイエスさまを信じていた人は天国に行けるけれど、そうでない人は地獄行きだ」。間違いではない。けれども、小学校一、二年の私は怖かった。イエスさまが今晩来てしまったら大変だと思った。天国に行きたい。地獄には行きたくない。でもイエスさまを「信じる」という言葉が分からない。少なくとも、分からないと言うことは「信じていないのだ」。私は毎晩寝るのが怖かった。

 結局、自分は小学校三年生の夏のバイブル・キャンプで信仰を持ったのだけれど、母に言ったことがある。「僕はもっと早くイエスさまを信じたかった」。ぜいたくと言われればそうかもしれない。でも、あのかわいい私が教会学校の先生たちの話を聴きながら人知れず恐怖におびえていたときに、自分からは聞けない小心者の私に、誰かが「信じるってこういうことなのよ」と教えてくれていたら、きっと私はその時にイエスさまを信じていただろう。小さい子どもたちの話を聴いてあげて欲しい。小さな子どもたちの分かる言葉で話してあげてほしい。何となく楽しいお話でごまかさないでほしい。彼らをぜひ信仰に導いてあげてほしいと思う。

 

3.「恵み」としての信仰に立つ

 私はそもそもどちらかというと地獄に行きたくなくて信仰を持ったから、自分の信仰はどうも後ろ向きだった。その当時キャンプで語られることの多かった説教のパターンのせいもあったかもしれない。私は説教を聴くと必ず、自分は何と罪深いのだろうと思わされた。その内、いつでも自分は罪人だ罪人だと自虐的にさえなった。「自分は愛される価値がない」。だからもっとがんばらないといけないと思った。二度と罪など犯すものか。ところがなかなかそうはいかなかった。また失敗する。そんなことを繰り返した。

 そんなある日、神さまが私に語ってくださった。イエスさまが自分のために死んでくださったのは自分が立派な、罪のない人になったからではない。神さまは私の弱さ・小ささ・もろさ・足りなさ・罪深さ全部知っておられる。自分は愛されるためにがんばるのではない。がんばれなくても愛されている。でも愛されているから、愛されている子供らしく生きていくのだ。私の信仰がとても楽になった。ただ、このことが分かるまでに約十年かかった。信仰がどこまでも「恵み」だということが分かったときに、肩肘を張らなくてもよくなる。

 私たちは御言を語るときにも、とかく「だからこうなれるようにがんばりましょう」と持っていきやすい。聖書は規則集ではない。「あれしろ」「これしろ」と言われても、私たちはそこでつぶれてしまう。でも聖書の言葉のすごいところは、神がそのように語られるときにそのようになってしまう、命と力を与える言葉だと言うことだ。これが分かると信仰も楽しくなるし、確信をもって御言を語れるようになってくる。

 

4.隠されたカリキュラムの意識化

 教会教育は言葉だけで成り立つのではない。実は教会に起こってくるすべての事柄の中で起こっている。それは私たちが意図している部分だけではないのだ。案外、私たちが意図していない部分で、意図していない人たちが、意図していないことを学んでいると言うことが多い。もちろん、神はそのことを知っておられるし、神の意図はそこに働いているだろう。大切なことがある。教会で何が起こっているのか、教育的な視点から教会の働きを全部見直すと言うことだ。私たちが気づかずに伝えてしまっているメッセージに気づくと言うことだ。案外、私たちは口では神は愛だと語りながら、教会の歩みを通して「神はがんばる人しか愛してくださらない」というメッセージを伝えているかもしれない。

 私は大学時代にとても多くのことを学んだ。机の上での学びもそうだが、それ以上に、いろいろな人とのふれあいの中で多くのことを学んだのだ。その一つは夏のキャンプ場のキッチンスタッフの一人としての学びだった。そこで私は、多くのクリスチャンの先輩たちに出会った。彼らは真面目で仕事ができた。けれども、遊ぶときには徹底的に遊び、そしてキャンプ場のチャップレンの先生もそんな遊びに付き合ってくれた。一キリスト者として神に仕えるとはどういうことかを私はそこで学んだのだ。

 だから言葉だけではない。一つのメッセージを教会の歩みの様々な側面の中で伝えていく。「神が愛」だとしたら、役員会は、教会堂は、教会学校は、青年会は、伝道会は、会計は、どうあるべきか・・・を考え、小さな部分にこだわり、メッセージ性をもたせていくのだ。この「メッセージの付加」「メッセージの意識化」はこれからの教会にとってとても大きな課題であろう。

 

5.見つめつつ成長を待つ目を持つ

 私はある時期、とても精神的に追いつめられ、強迫神経症的になっていたことがある。中学時代が一番ひどかったかもしれない。自分でもおかしいと分かっている、でも自分で自分をコントロールできない、そういう時があった。教会の方々にもそのことは明白だったと思う。けれども、教会の皆さんははそんな私のことを黙って見ていてくれた。それでどれだけ救われたか分からない。私は小学三年生の時に救われ、小学三年生の時に将来主のために働きたいという献身の決意をした。けれども、そんな私を黙って見守り、祈っていてくださった教会の方々がいなかったら今の私はない。

 教えなくては教えなくてはといつもいつも焦る必要はない。黙って主の働きにまかせて待たなければならないときがあるのだと思う。パウロは「成長させてくださるのは神」と言う。本当にそうだと思う。私たちは耕したり、水をやったり、雑草を抜いたりするけれど、草を引っ張って伸ばそうとしてもうまくいかない。神にゆだねて、待つ。この人の内にきっと神さまは大きなことをしてくださると信じて、期待して待つのだ。

 教会には時に、不思議なことが起こる。昨日までとても批判的だった人が、全く変えられていくということだ。後でいろいろ聴く中で、その人の内に神が働いて業をしてくださったことを知って、主をあがめる。

 「そんなこと信じられないよ」とつぶやく青年に、でも神はきっとこの人の内にご自身の御業をあらわしてくださると信じて、寄り添っていく。だからダメだではない。今はこの人はこうなのだ。でもいつまでもこのままではない。神が育ててくださる。

 私には四人子どもがいるが下の二人はダウン症児である。まあ、マイペースでゆっくり育っている。確かに、小五になるというのに九九はできない。四月に小二になる娘もきわめてのんびり屋である。でも確かにゆっくりゆっくり育っている。変わり続けている。他の人と比べると・・・と思うけれど、彼らは彼らでいい。「せっかちになるなよ。あんたもここまでくるのにずいぶん時間かかったじゃない・・・・」。彼らからいつも教えられる思いがしている。

(2007年4月発行 レインボーNo.36掲載)

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