牧会理念をお話ください、お分かち下さいと言われて、少し戸惑いを感じております。まだ始まったばかりの小さな取り組みです。この取り組みを通して、さらに課題や問題も見えて来ています。それらを乗り越えながら、少しでもキリストの身体である教会がこの地において建て上がって行けばと願っています。このような教会もあるのだという一例としてご紹介致します。
1.基本的理念
私が基本的なこととして考えていることを先ずお分かちしたいと思います。教会には大きく分けて働きが二つあると思います。宣教と教会の建て上げということを考えてゆく時には一人一人のクリスチャンが子どもも大人も主イエス様に従い、主の弟子として生きて行くことという個人的な側面と宣教の働きを通して人々をキリストに導き、それらの人々を共同体の中に入れ、共同体として共に育ってゆくと言う側面の二面があります。その教会のために聖徒が整えられてゆく必要があります。これは大人に対するだけの働きではなく、子どもに対しても同じようになされてゆくべきものだと言えましょう。
2.子どもも大人も共に
私自身、クリスチャンホームで育ち、教会の中で育ちましたから、子どもは教会の中にいるものという感覚が常にあります。子ども達の元気な声があふれている教会こそが、イエス様の喜ばれる教会ではないかと考えています。ところが、現実はなかなか難しくて、CSを子どもの礼拝、そして主日礼拝を大人の礼拝と考えておられる方々が非常に多いように見受けられるのです。CSの先生方の中にも、子どもは大人の集会の邪魔だからと公言される方もあります。悲しい限りです。礼拝者としての大人と子どもを分けて考えることはやめたいと思います。子どもも大人も主イエス様の前にはかけがえのない素晴らしい存在であることには変わりせん。このことを私自身が肝に命じておく必要を感じます。ともすれば、子どもが小さいというだけで、あたかも信仰者として劣っているかのように見下してしまうことがないようによくよく注意したいと考えています。
子どもには主日礼拝を守るのは無理だという思いを持った時期もありました。けれどもそれが正しい礼拝理解ではないと考えを改めたのが、ある教会の礼拝に出席した時でした。そこでは礼拝に子ども専門の説教者が毎週立てられて、子ども向けのメッセージが語られていました。そして、子どもも大人もともに礼拝を守っていた姿でした。この時、そもそも礼拝を大人のもの、子どものものと分けていた礼拝観が間違っているのだと教えられた次第です。もちろん、子どもですから、集中する時間には限りがありますし、知的・身体的能力の限界もあります。それを認めた上で、一人の礼拝者が礼拝をささげているという意識を持ち続けたいと思います。礼拝は、すべてのクリスチャンが主の前にでて捧げるものです。そこには大人も子どもも区別はありません。五千人の給食の記事の中で主イエス様の話を聞いていたのは、大人だけではありませんでした。子どもも聞き、そして子どもの小さな捧げものを用いて、主は大いなる奇跡を行われた記事を思い起こす時、私は大きなチャレンジを受けるのです。
さて、私たちは久留米教会で奉仕をするようになって、三年目になります。私たちが赴任する前から、前任者によって子どもも大人も共に守る礼拝が継続されて来ました。また、子どもの為のメッセージもなされていました。私もそれを継続して子どものためのメッセージの時を持っています。なるべくその時のメッセージと関連づけながら話をしています。時には、子どもよりも大人の方が良く分かると言って下さることが合ったりして、苦笑することもあるのですが…。
さて、礼拝だけでなく、祈祷会も子どもと大人が一緒に守る集会を目指しています。祈祷会の前半は普通の集会ですが、後半の祈りの時には、小グループに分かれて祈りの時を持ちます。子どもは子どもの祈りのグループがあり、そこで祈りの課題を分かち合い、子どもなりに取りなしの祈りを行っています。
子どもも大人も共に育つ教会を一つの取り組みの柱にしたいと願っています。子どもはいつまでも子どもではありません。5年10年経てば、大人に成長して行きます。そして大人にはない可能性を秘めているのが子どもです。今、与えられているお友だちの中から、次代を担う神の器が興されることを祈り求めながら、子どもたちの育成に当たりたいと思います。そのために必要なことを一つ一つ教会の現状に合わせて取り組んでいます。
3.ディボーションと分かち合いの教会
クリスチャン生活の基本になるのが、ディボーションであることは、議論の余地のないところでしょう。けれども、それが具体的にどのようになされているのか、また、大人にもなかなか難しいと感じることを子どもにできるのかというのは色々と御意見があることと思います。
私たちの教会では、小学生は、CSの学科にそった一日に2〜3節のみことばを読むこと、中高生はそれぞれに自分のペースで聖書を読むこと、そしてそれ以上は「日々のみことば」にそって聖書を読んでディボーションを行うことを継続しています。
個人のディボーションではみことばと取組む中でいくつかのことに心を留めるようにと指導しています。
一つ目は祈りつつみことばを読むことです。聖霊なる神に語りかけを期待しつつ、心に留まる言葉、聖句を待ち望みます。そして、そこから語られることに耳を傾けるようにします。
二つ目は、語られたみことばが今の自分の心と生活にどのような意味があるのか、みことばと生活を結びつけるようにします。ここがディボーションにとって大切な部分であると同時に一番難しい部分です。
私自身は中高生のディボーションの分かち合いを指導していますが、特に単なるみことばから教えられたことに止まりがちなディボーションをどのように生活に適応して行くのかを導くことに苦心しています。
先日もある中学生が箴言16章32節から「怒りをおそくする者は勇士にまさり」という言葉が心に留まったと話してくれました。そして、「怒りやすい自分がいるので、主によって怒りを遅くしてもらいたい」という証をしてくれました。分かち合いが一段落した後で、そのことを取り上げて、みんなで少し考えてみようと提案して、一緒に考えてみました。「いつ、自分は怒るのか、誰に対して怒るのか、どうしたら怒りを遅くできるか。」具体的な事柄をとりあげながら、私自身も、怒りについての自分の経験や弱さを出しながら分かち合いで一緒に考えてみました。子どもたちの活発な議論に助けられて、生活に密着したみことばを味わう時ができました。子どもたちが自らみことばを味わう営みがディボーションでできるようにとなお一工夫必要な現状です。
最後に、語られたことをノートに書き留め、取組むことを主の前に持ち出して、主の助けを祈り、一日が終わる時にどうであったかを振り返ることです。ここでの中心はみことばを行うことです。これらをもちよって、分かち合いをそれぞれのグループに分かれて行っています。
ディボーションの取り組みの課題は、適切な動機づけを与えてゆけるかにあります。ディボーションで恵みを受けることが一番の動機づけなのですが、なかなかそこまで行きません。ですから、ディボーションが出来なくても、途切れても、励まし続けることが大切になってきます。それを支えるのが分かち合いのグループです。ここでは、共に信仰の歩みをしている者たちが励ましあいながら進んで行きます。そして、ディボーションにおいてみことばを通して語って下さる主が私たちを育てて下さいます。
ある自営業の方が売り上げの減少の為に主日も営業をすると決断をされました。こちらには相談が無かったために、そうですかと受けとめました。それから、その兄弟のために牧師は祈り続けていました。すると金曜日にファックスが入り、ディボーションで主日厳守を示されたので、礼拝に欠かさず出席しますとのことでした。主の御名を崇めました。確実に、ディボーションを通して働いて下さっている主の姿に励まされています。後は、一人でも多くの教会員にこの恵みに加わってくださるように祈りつつ、取り組んで行きたいと思います。
(2006年3月発行 レインボーNo.34掲載)