第9回レインボー・ミニストリーズの子育てセミナー報告
2004年1月31日(土)お茶の水クリスチャンセンターにて開催
「どうぞお子さんを連れて出入りしてください。お子さんの声はBGMです」「学問は“なんでだろう”だよ」と言う、岡本先生の優しい声から、約3時間に及ぶ、温かく、するどく、そして深い「愛の講義」がスタートした。以下はその要旨である。
【はじめに~講師プロフィール~】
東京都・伊豆大島出身。母親がクリスチャンであった。小学校高学年まで、兄弟みんなで教会学校に通ったが、その後教会から足が遠のく。15年前、当時中1の息子が荒れ始め、不登校になる。学校に対する不満や弟への暴力などもあったが、原因は自分にあったと思う。私は「子育ての専門家」、「こんな優しい父親はいない」と思っていた。しかし、硬い道徳的教育学者なだけであって、本当に温かい父親ではなかった。自分の領域で子どもを遊ばせているだけで、私自身のためだったのかもしれない。ある時、「あなたの床を取り上げて行きなさい」というみ言葉に出会い教会に戻った。そして「子どもが学校に行ってもどこに行っても、神様が共にいてくださる…」「自分が傍にいなくても、神様が子どもの傍にいればいい…」と教えられた。とにかく祈ろうと思った。子どものことで苦しみ、悩み、祈りに祈った。「親も子どもも苦しんでいる。こういう親子が日本中にたくさんいる」と感じた。「神様、何かをさせてください。」と祈った結果、「あなたは“子育て”のことをやりなさい」と召しを受け「日本キリスト教子育てセンター」を設立。現在は子育ての勉強会や相談などのために全国を回っている。
第一部 幼児期・小学期
~ 生きる力? ~
クリスチャンだからと言って特殊な人物ではない。私自身もそうである。そして自分なりに必死にもがいている。クリスチャン家庭、牧師家庭も悩んでいる。いろいろな相談を受けながら、クリスチャン家庭の悩み、痛みが多いことを感じる。クリスチャン家庭に不登校児が多いのは、優しく真面目な子が多いから…。喧嘩できない。「No!」と言えない。不登校は悪いことではない。もっと子ども達の現実を知ることが大切。現実を知らないと通用しない。また、今の子は受身。自分で能動的に動けない。生きる力が弱い。国でも「生きる力を育てよう」と言っているが、これには反対。国の言う「生きる力」は経済界でのことであり、障害者や弱者は阻害されている。
~ 過保護・子育ての放棄 ~
現在、「過保護」「虐待」が増えて来ている。過保護に関して言えば、子育てを放棄するよりはいいが、“厳しい優しさ”も必要。今は“抱える優しさ”ばかりが目立ち、だまっていても親がやってくれる。月15万円のお小遣いをもらっている大学生もいるが、学ぶ気力がない。また、小学6年生の男児の買春…このような悪い情報が小学生に入ること自体がおかしい。ある小学3年生の男の子、何でもしてくれる過保護な親にねだってばかりいた。しかし次第に子どもの要求に応えられなくなった。親が限界を示すと子どもは暴力をふるうようになった。相談しながら親もようやく過保護に気づく。そして子どもを一旦受け止め、子どもに謝り、後に子どもも立ち直った。ある有名な先生が「子育ての辛い時代は終わった…」と言われたが、これは子育てを放棄した言葉であると思う。今、未婚の母の子が乳児院に多く入っている。産みはしたが子育ては嫌なことの現れではないだろうか。子ども達のために祈ることが教会の使命である。
~ 基本は夫婦 ~
クリスチャンの親の基本は夫婦関係。夫婦が話し合い、祈り合い、情報を共有していくこと。また、子どもがどう思っているか、自分たちの姿が子どもにどう写っているかを時々立ち止まって見ることが大切。自分の力ではどうしようも出来ない。だからひたすら祈る。真剣に自分と子どものために祈る。子育ては信仰が試される。
~ 集団生活になじめない ~
また今は、集団生活になじめない子が多い。仲間を作るのが下手。人間関係調整能力が欠如している。やりとりやキャッチボールが出来ない。ある公園に行き観察したところ、小さな子どもを連れたお母さんが砂場に。お母さんはシャベルを2つ持って来ていた。他の子に取られたら、その子に1つあげるためであり、母親はトラブルを避けようとしていたのだ。集団生活になじめない小5の女児。母親は熱心に奉仕活動をしている。不登校児のために頑張っていたら自分の子が不登校になった。自分の子の心が分かっていなかった。子どもは我慢して親に合わせている。“いい子”ほどそうである。その母親は不登校の子どもを訪問する度に、自分の子どもも連れて行っていた。子どもの心を汲み取る親でなければならない。私自身、子どもを自由に育てたつもりだったが、それは、自由と言う名の束縛であったと思う。
~子どものために祈る ~
子どもの担任の先生、校長、教頭、友だちのためにも祈ることが大切。私自身、神様に委ねると祈っていながら委ねきれない自分であったが、デボーションを通して、少しずつ少しずつ委ねられるようになってきている。
~「遊び」を理解する ~
クリスチャン家庭は、どうしても道徳的になりがちで、遊びを理解してあげられないことが多い。遊びは「生命活動」である。人間の赤ちゃんは歩けない。しかし動物の赤ちゃんは、生まれたらすぐ歩く(泳ぐ)。それは餌を取るため、危険から逃れるためである。動物はお腹の中で生きる基本を学ぶ。それを胎内幼少期と言う。しかし人間は、生まれた時から少しずつ生きるために学んでいく。それが神様が造られた人間の特徴である。「生きたい、生きたい」「知りたい、知りたい」と、手や口で触れ、確認していく。生きたいと思う生命分子が働き、分子は生命値を高める方向で動いている。それが遊び。これを抑えられると、ストレスが溜まってくる。今の非行は、遊び不足から起こっている。遊びは、睡眠や食事と同じ本能的な欲求。一人の存在、人間として、遊ぶ存在であることを受け止めながら、子どもの遊びを理解することが大切。
~ 聞いてあげる…ギャグ、シャレの言える大人に ~
傾聴力を養うこと。家庭は安らぎ、慰め、憩いの場である。外で何があっても、受け止められる場所が家庭。教会もそうでなければならない。教会にくつろげない雰囲気はないか?教会は“しゃべり場”でなくてはならない。教会こそ、何でもいえる場所、弱さをさらけ出せる場所でなくてはならない。教会が“しゃべれない場”になってはいないか?
自分の弱さを初めに出すと、子どもも出しやすくなる。 家庭も教会も、もっともっと弱さをさらけ出せる場にならなければならない。伝えても伝わらなければ意味がない。また伝えっぱなしではいけない。伝わる関係でなければならない。イエス様はギャグやシャレ、特に遊びは上手であったと思う。遊びが嫌いな人のところには子どもは来ない。ジョーク、シャレ、夢物語を言うような大人のところに子どもは寄ってくる。「ユーモア」=ギリシャ語で「フーモス」。これは体内の水分のこと。水分がないと死んでしまう。そのように考えると、ユーモアは潤滑油である。お母さんは子どものことを分かっていると思っているが、本当はわかっていない。「早く!」「ダメ!」等、急かせること、規制すること、抑えられることの多い毎日。聞いてあげる大人に、ギャグ、シャレの言える大人になってほしい。イエス様は「超カウンセラー」である。
~ お父さんと遊ぶ ~
お父さんが遊ぶことがとても大切。子どもが遊びの中で出す自分の心の言葉を、感じ取ってあげられるようにしたい。そして話し合うことが大切。日本の父母は世界一子どもとの会話が少ない。平成11年に国が出した資料によると、日本のお父さんは、とにかく子どもと会話をしない。また親には自由に反抗して良いと思っている人が、他の国が2割程度なのに対して、日本は8割。日本の子は世界一反抗的な子どもになっている。「分かってくれなければ一方的に反抗するしかない」のである。「聞いてもらえない」「話し合いが出来ない」=反抗するしかない。クリスチャンと言えども、儒教的な家制度に捕えられている。遊びと勉強は対立的に考えられており、遊ぶ子はろくな子にならないとなんとなく思われている。また、男や親が偉くて、「親の言うことは聞くもの」と、一方的に権威を振りかざすところがある。神様から与えられ委ねられた存在として、子どもを見ることが慣習的に出来ていない。
~ おこらせてはいけない ~
“父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。” (エペソ人への手紙6章4節) 子どもは小さければ小さいほど、親の言うことをよく聞く。しかし、自分がどうして怒られているか解らない。理不尽に思えても子どもは我慢している。子どもは遊びたい一心で動く。しかし、大人は子どもが遊ぶ(生命活動をする)前に、「静かに」「汚さないように」などと言う。子どもはどうして遊んでいけないのか、一方的に言われたり、叩かれたりすると思って、泣いて抵抗する。叩く時、その8割は、自分が冷静でない時である。クリスチャンと言えども、感情的になって叩いてしまうのである。子どもは怒られる訳を知りたいと思っている。冷静な時には訳を言える。怒る前に3秒我慢してみたらどうか。子どもを怒らせてしまうと何がいけないのか、会話が成り立たなくなってしまう。
~ 気落ちさせてはいけない ~
“父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。”
(コロサイ人への手紙3章21節)
気落ちさせてはいけない。気落ちすると希望が持てない。日本の子どもは自己評価が非常に低い。「私はどうなってもいい」と思っている。また親も自分の子どもに満足していない。子どもも自分に満足していない。なぜそうなるのか…気落ちしているからである。そのようなレッテルを貼ってしまうので、そうなってしまう。「ダメねぇ」、「どうしてこうなのかしら」、「いったいどこの子?」等と言う言葉に小さくなり、どんどん心がしぼんでしまう。そして、自己評価が低くなり、自分はダメな人間だと思ってしまう。
~ 主の教育と訓戒 ~
クリスチャンの教育は、主の教育でなければならない。新聞、テレビ、雑誌等の情報のほうが多いのではないか。ついつい自分の常識で子どもを見てしまう。「親だから…」と人間が出てしまう。またクリスチャンと言うことを忘れてしまうこともある。教育というのは一方的なものではない。主は愛なる方。私たちは愛か?父親、母親である。自信のないままうろたえている時に、つい言ってしまうことが現実。私より主のほうが子どものことを知っておられる。声かけも知っておられる。主の教育のほうがいい。私の子ではなく、主からお預かりした子であるのだから、私の教育ではなく、神様にお任せしよう。そして、「聖書がこう言っている」と言うだけでなく、「神様、どう思っているかなぁ」等、神様の思いに心がつながるように語りかけるとよい。
第二部 思春期
~ 癒されるために… ~
中2の女の子が家出した。あるミッションスクールの養護の先生から電話があり、その子と1対1で話した。「お父さんが怖い…」厳格な父。御言葉に立っているつもり。話している中でその子は泣き出した。泣くと言うことは、心を許せるようになること。
「人間は泣く膝を必要とする動物である」。泣くと良い。泣きながら祈ると良い。癒されるために必要な3つのTがある。それは、 ①Talk(話す)②Tear(涙)③Time(時間)である。また、厳格なお父さんの場合、お母さんがかばったほうがいい。子どもには逃げ場が必要。ある小5男児と一緒にキャッチボールをした。下手だったが誉めてあげた。ただそれだけだったが、ある日「岡本先生のところに行く」と置手紙をして家出。なぜ私のところに行こうとしたのか…。「あの先生はぼくのことを誉めてくれたよ」その子は今まで、親から一度も誉められたことがなかった。
~ 寂しい子どもたち ~
ある殺人事件に巻き込まれた中2の男子。両親はその子を甘く育て、近所付き合いが出来ず、夫婦関係も悪かった。その子は夫婦関係が悪いのを見ていた。両親が仲が良いか悪いかは2歳でわかる。子どもは直感が働く。ある中学教師は子どもが寝静まってから夫婦喧嘩をしていた。しかし子どもは円形脱毛症になった。ぐれている子は寂しいからぐれる。ぐれるしかない。
友食(ゆうしょく)…親が食事を作ってくれない。親と食事が出来ない子が、コンビニで食事を買い、コンビニの前で食事をするのを、友達がその子の家には行けないので、一緒にそこにいて食事に付き合ってあげていること。食事が個食になってきている。
~ 生活の中での信仰 ~
生活と一体になっていない信仰は弱い。生活、暮らし、お金、夫婦関係、子育て…生活の課題を通して、いろいろな現実を通して信仰生活を学んでいないと、その信仰はもろい。子育ての前に夫婦のあり方を考える。だが夫婦関係も難しい。夫婦は弱いもの。少しずつ愛を高めていくように。普段から子育てのことで愚痴を言い合ったり、話し合ったりすることが大切。また地域との交流はクリスチャン家庭も必要。人は一喜一憂する。そして神様の時がある。とにかく信じ通すこと。「祈る」とは心に決めて祈ると言うことではないか。祈ることについてマルチン・ルターは、「1つ課題があれば1つ祈り、2つ課題があれば、2つ祈る」と言っている。私たちは、祈りを基本にしながらやっていかないと負けてしまう。
~ 学校信仰 ~
長い間、「学校宗教」「学校信仰」と言われてきた。これは、明治時代からの政府の要の作戦である。国を豊かにするためには、どんどん働かせる。働くためには良質な労働者にならなければならない。知識、技術を覚えることは経済を豊かにすることであり、それは大砲や軍隊へと移行していく。教育と軍隊は国家の両輪。そして今、イラク問題へとつながっている。「学校に行ければ幸せになれる」と明治時代から言われ続け、それが学校信仰となった。「学校に行き、成績が良ければ、いい大学、会社に行き、幸せになれる」という時代が少し前まであったが、今は学歴も成績も下がってきている。一流大学に行ってもいいところに就職できない時代。だから、学校よりは、自分でどんどん勉強して、個性を生かそうという時代に入ってきている。
~ 愛を教える ~
教育は人間形成である。そしてその基本は「ハート」、「愛」である。愛は学校では教えない。「教育は人格の完成を目指す」と言うように書いてあるが、人格の中心は愛である。知識、技術があっても、愛が届かなければいけないし、愛があれば知識を得ようと自分で勉強するようになる。そのためミッションスクールを作り、今日、国もキリスト教教育に注目し始めている。その現れとして、沖縄のチャーチスクールが文部省に認可された。
~ 階層の再生産のしくみ ~
クリスチャン家庭も学校教育に巻き込まれている。知識、技術を学ぶのは必要であるが、いつも国家や経済のための教育に成り下がっている。「自分のために勉強をする」と言うが、それなら「好きな勉強を自由にさせてくれればいいのに…」と思う。国家が教科書までも決めている現実がある。また「階層の再生産のしくみ」がある。金持ちの子は受験に有利。それはアメリカでも同じ。貧乏な子は塾にも行けない。小学校に入学した時点ですでに平等ではなくなっている。勉強してきている子は算数もできる。学校では「名前が書ける、読めるだけでいい」と言っているが、スタート時点ですでに差が開いているのだからどうしようもない。階層の再生産をしているのは学校である。一流(有名)大学は、みな金持ちの学校。庶民の大学ではない。今はいろいろな個性を持った学校が出来てきているが、それはみな私立なので、どんどん私立志向になってきている。学校に行く、行かないではなく、神様に従っていける子、神様にあって、苦しい時に祈り、賛美して、一生を終えることが出来るといいのではないか。どんなに有名で知識、技術、学歴があっても、いつも不安で、もっともっと○○にならなくては…と思うよりも、「今日一日感謝です」と思えるほうがいい。100%、死はやってくる。しかしクリスチャンである私たちは100%天国に入っている。神様にある生活が出来ればいい。人のため、神のために生きようと思えば自然と勉強をする。
【おわりに】
牧師家庭の中2の女の子が不登校になった。学校に行けないことで母親は泣いていた。学校に行けないことが悪いことと言う思いがどこかにあった。最近、その女の子から手紙をもらった。その子は、「私は不登校だけど、どうして学校に行けないのか分からない。家も牧師家庭でみんな優しい。それなのにどうして行けないのか…。イエス様に祈っても自分の気持ちがわからない。祈ってほしい」というものだった。しかし、その子が書いた夢の作文が学校の代表となった。その内容は、「私の夢は牧師になること」と言う、すばらしい伝道の作文であった。そしてその作文は県にまで行き、多くの人の目に触れた。後に母親から、「娘が学校に行けるようになった」と連絡があった。他の集会でその子に会う機会があったがその顔は喜びに輝いていた。きっとその子は牧師になるであろう。たとえ学校に行けなくても、主につながっていれば大丈夫。私たちが生きていること自体がgood(良い)。神が働いてくださる。だらしがない私たちは、試練に会わなければ堕落してしまう。「わたしがあなたの神だ」と主は言われる。辛い苦しい時、「教会に行きたい」「神のもとに行きたい」と思えるように…。悲しみや苦しみは、神様に近づき、委ねるようになるための神様からのプレゼント。苦しみのない人は、人の相談にのることができない。不登校もプレゼント。苦しいが1つ1つ越えていけば、主に近づいていける。子育てはそのためのプレゼントではないか。 (編集部)
(2004年5月発行No.31掲載)