1.自立的かつ聖書的に物事を考え行動する

 若い牧師、ことに一世の牧師は、教会教育の理念が固まるまでほとほと苦労することが多い。二世の牧師は、そこらへんが生活史の中で自然と吸収されているもので、一世が味わう苦労はわかりにくいことがあるだろう。ともあれ、一世の牧師は、小牧者でもBILDでも何でもよい、教会学校であればメビックでもアワナでもよい、一つの既成の教育理念や方法論を徹底して学ぶことから出発したらよいと思う。そういう作業は、多くの不足を埋め合わせる。ただ天邪鬼な私は、こういうものに素直に学べず愚かしい限りの苦労をして、叩かれながらそれとなく格好のついた教育理念を持つに至ったようにも思う。やはり素直さが大事、教育理念を身につけるための、これに勝る近道はない。

 ともあれ、私が考える教育理念の第一は、信徒が自立的かつ聖書的に物事を考え行動していけるようになる、ことである。そのためにどうしたらよいのか、聖書教育に王道はない。信徒の心に触れながら聖書全体を教えていくことにある。ポイントは「心に触れながら」である。人は聖書から学んだことを要領よく教えればそれで育つわけではない。知識伝授の教育で変わるのは知識量であって、信仰まで深めるものではない。むしろ人が変わる、あるいは成長するのは、心に触れられる教育があってこそ、である。

 

2.心に触れながら聖書全体を教えていく

 では、信徒が心に感じる時はどういう時だろう。それは一つには聖霊が直接働かれる時であろうから、まず祈る教育だ、ということになる。自分の信徒の写真を机上に飾り、その霊的な必要をよく考え、特別な思いを持つ祈りが背後にある教育である。

心に感じる二つ目は、信徒が牧師の生き方をちらりと垣間見た時ではないだろうか。教育の世界には「意図せざる教育効果」というものがある。教えようとしたわけではないのに、教師のある一面、一瞬の姿を見て、生徒が大切な気づきを得ることがある。となれば、本当に意図した教育がなされることを期待するならば、牧師が自らみことばに真摯に向かい合い、自立的かつ聖書的に物事を考え行動することに集中する方が重要である。受け売りではない神と向かい合った生き方をしている、その一瞬を、神は信徒の教育のために、いつ用いられるかはわからない。

信徒が心に感じる三つ目は、実際に信徒が心に触れられる気遣いを受けた時だろう。些細なことであっても、気遣いが感じられた時に人は心を開く。そういう意味では、牧師には、母親のような気遣いが必要で、信徒の色々な必要に敏感であることも大切だ。最近の献身者の問題は、牧会されたことのない者が牧会の現場に立つことでもある、と言われる。親のいない子どもが親になった時の戸惑いに似て、どのように牧会してよいのかわからない、というわけだ。牧師が親身に一人一人を世話する牧会をしていく、気づき、声がけ、配慮を丁寧にしていく、そういうところにみことばが語られてこそ生きたものとして心に響くのであろう。

 

3.教会を創設し、建てあげ、安定化させていく

 興味深いことに、教会をうまく建てあげていく牧師には、おおよそ信徒の霊的な成長発達のみならず教会の成長発達について、一連の流れのイメージができている。福音の核心を教えることから始まって使徒の教えを教えていく流れとまたその内容。教会の設立から建て上げ、そして安定化までの流れとその内容。

その昔は、使徒信条と十戒、そして主の祈りの三本柱によって信徒教育はなされた、とも聞くが今もそれは変わらない。形式は変わっても現代の弟子訓練テキストにも共通する部分は多い。しかしながら、キリスト教が普遍的な世界であった宗教改革の時代から遠く離れた現代は、それに加えて教会観、教会の発育の流れがきちんと教えられていかなくてはならない。これらが教えられるばかりか、新生の人生と聖書的な共同体感覚に生きる訓練へと絶えず導かれていかなくてはならない。

 宗教改革者の時代は、教理問答教育、いわば秩序付けられた聖書の学びがその役割を果たした。しかし現代は、どちらかというと彼らとは違う方向で物事を解決しようとしているところがある。新たに秩序づけられた聖書の学びでする、というよりは、カウンセリングやマネージメントなどを学びあうこと、つまり世俗的な心理学的科学的研究の成果を牧会上に応用することに熱心になっているようでもある。しかし教会の教育は、神の御言葉の教育であり、真に牧師に求められているのは聖書の考え方を教える力そのものである。みことばを通じて、新生の歩みの訓練へ、また宣教のチーム作りの訓練へと導き続ける、そういう教育理念を持つことが大切である。

 

4.果報は寝て待つ

最後に、自分なりの教育理念を持ちながらも、成長は生徒のペースに任せるのが、別記の教育理念であると心得たい。もっと信仰的な言い方をすれば、成長させるのは神であるから、聖霊の導きのペースに任せる、ということでもある。

 セミナーでは悩みを抱えた教師がたびたび出席する。思うように生徒が育たない、ということに焦りを感じるというか、自分の無力さを感じ、つらさを感じていることがある。もし、そこに自分で伸ばせる部分があるならば、それを伸ばす努力は必要だろう。確かに日本の教会の教師たちは勉強不足であると言っても過言ではない。牧師、また教会の教育に携わる者は、医師、弁護士と似て、絶えず時代の変化に応じた、継続研修、新技術研修を必要とする職種であるが、その認識は乏しいようにも思われる。神学校で献身者が少ないと聞くが、なぜ神学校で、絶えず献身者は学び続けることをしないのか。既存の知識に安住していては、変化する時代に生きる人々を捕らえることはできない。

 だが、そのような自己研鑽の努力を積みつつも、なお思うように生徒が育たない、生徒が集まらない、否逃げていく、と言うことがあることだろう。そういう時は、結果を導かれるのは、主であることを今ひとたび覚えたい。聖霊が私たちの宣教と教育の業を用いられるのである。私たちの業が神の深いご計画の中で芽を出さずにいる、ということもある。つまり神が別の働きを用いられる、ということもある。だからせめて、今のかかわりが、長くよきみことばの教育の記憶として残るようなあり方を心がけたいものである。人は、親切なことばやいのちあることば、あるいは気遣いのあるふるまいを、いつか思い出すものであろう。信徒のペースを大事にしていく、これまた大事な別記、教育理念である、と私は思う。

(2005年7月発行 レインボーNo.33掲載)

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