聖書から見る教会教育 クリスチャンの霊的成長について
第4回「友情―霊性を形成し実践する場、その1」
はじめに
私事で恐縮だが、私には現在3人の子どもがいる。一番下の3才になる息子の名前は「友久(ともひさ)」という。ご多分に漏れず、その名には親としての思いが込められている。それは、「『友なき者の友』となってくださった主イエスを友とすることによって、この子も『友なき者の友』となるような人に育ってほしい」というものであった。アメリカの友人に友久の名前を紹介するとき、「トモヒサの意味は“Everlasting Friend”(永遠の友)だ」と説明すると、皆一様に「ウァオ!」と驚いてくれる。このように、「友久」という名前には、友情というものが人間としても、また信仰者としても掛け替えのない大切なものであるという親としての思いが込められている。
ところがどうだろうか。今日私たちは、クリスチャンとしてどれだけ「友情」というものを意識しているだろうか。重要視するどころか、むしろ信仰生活の中で脇に追いやっていることのほうが多いのではないだろうか。もし「友情」などというものは信仰の歩みにとってさほど重要な意味がないとしたら、友情が重んじられていないとしてもさほど問題はないだろう。しかし、もし「友情」がクリスチャンの信仰と霊性にとって本質的なものであるとしたら、私たちは霊的ないのちを知らず知らずのうちに失っているということになるのではないだろうか。
今回は、クリスチャンの霊的成長(霊性)の問題を、「友情」という観点から考えてみる。言い換えると、クリスチャンが霊的な成長を求めてゆくときに、どうしても欠かすことができないことに信仰の友をもってゆくことがある、という問題である。もちろん「友情」以外にも霊的な成長を求める上で重要な領域はたくさんある。今回は「友情」にしぼって霊性の展開の問題を考えてゆきたい。
1.なぜ「友情」なのか
キリスト教の歴史の中で「友情」はどのように理解されてきたのだろうか。手近なところで『ベイカー神学事典』(聖書図書刊行会)や『新キリスト教辞典』(いのちのことば社)、『現代キリスト教神学思想辞典』(新教出版社)、Evangelical Dictionary of Theology(Baker)等を開いてみても、「友情」あるいは「友」という項目は見当たらない。ある意味で当然である。なぜなら「友情」とは神学的な概念ではないからである。
キリスト教の歴史の中で特にプロテスタント教会、中でも福音主義の流れにある教会の中では、「人-人」の関係よりも「神-人」の関係が重視されてきた。したがって、クリスチャンの霊的成長にとっては、人間同士の友情関係よりも、神との親しい交わりをもつことが最重要であると見なされてきた。たとえば、アメリカ植民地期ニューイングランドを代表する神学者・牧師であり、福音主義の出発点に位置するひとりと見なされているジョナサン・エドワーズは、クリスチャン同士の交わりの重要性を認めつつも、第一に重要なのは神の前にひとり出ることであると考えている。エドワーズのこのような見方は、次に引用することばにも表れている。「真のキリスト者は、疑いもなく宗教的交わりやキリスト者同士の会話に喜びを見出し、多くの場合それによって心が左右される。その一方で、真のキリスト者は時として人々から退き、静かな場所で神と会話することに喜びを見出す」 。このように「神との交わり」を霊的成長における最重要な事柄と見る態度は、今日の福音主義者にも引き継がれている。
その一方で、前回の「三位一体の神とキリスト者の霊性」において私たちは、三位一体の神を信じる信仰は必ず交わりを生み出すものであり、その交わりとは「自分自身を与えること」、「相手を生かすこと」、「他者を受け入れること」を通して実現されることを見てきた。すなわち、私たちキリスト者が、父、子、聖霊の交わりとして永遠に存在される三位一体の神を信じる者として人間同士の交わりのうちに生きることこそ、真の意味での霊的成長なのである。使徒ヨハネが「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」(Ⅰヨハネ1:3)と言うとき、それは三位一体の神との交わりに生きる者は、人間同士の交わりのうちに生きるということを本質的なものとして証言しているのである 。
「友情」について考える上で、ここで簡単な質問をする。キリスト教の歴史の中で、あるいは私たちが信仰生活の中で実際に知り合った人たちの中で、「神に用いられた一匹狼のクリスチャン」がいただろうか。さらに極端に言えば、神に用いられた人の中で、クリスチャン同士の交わりを重んじなかった人がかつていただろうか。もしそのような人をひとりでも挙げることができるとすれば、それは私の議論の反証であり、私がここで書いていることは間違いだったということになる。もし反証を挙げることができないとしたら、是非この後も読み続けていただきたい。
2.キリスト教の歴史における「友情」
聖書の中には、友情というモチーフがよく使われている。しかも信仰の本質に関わることについて使われている。たとえば、出エジプト記では主とモーセの親しい関係が、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られた」(出エジプト33:11a)と表現されている。また、多くの人はダビデとヨナタンの友情を思い出すだろう。「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した」(Ⅰサムエル18:1)。ダビデとヨナタンの間の友情は、口語訳聖書が言うように、相手を「自分の命のように」愛するほどのものであった。新約聖書においてイエスご自身も、「私はあなたがたを友と呼びました」(ヨハネ15:15b)と語り、友情というモチーフを使って弟子たちに対する愛を表現した。
それではキリスト教の歴史の中で友情というテーマはどのように理解され、実践されてきたのだろうか。ここではヨーロッパ中世中期の修道院の伝統、前述のジョナサン・エドワーズ、そしてドイツ敬虔主義の創始者フィリップ・シュペーナーの三者を例に見てみよう。
(1)中世中期の修道院
友情は特に、中世中期の修道院の伝統の中で非常に重んじられ実践されてきた。ジャン・レクレークは修道士たちの間で友情がどれだけ尊ばれていたかについて、以下のように記している。「修道生活のあらゆる段階において、友情を表すための手紙がどれほど多く書かれたことか。こうした手紙の目的はただ一つ、相手を喜ばせることであった」 。友情を重んじる修道院の伝統があった一方で、分派や同性愛に対する恐れから、修道士同士の友情に対して懐疑的な見解もあったことも事実である。
この伝統の中で、12世紀にリーヴォーのアルレッドが書いた『霊的友情』は、友情論の古典として知られている。この書の冒頭でアルレッドは「さあ、ここにいるのはあなたと私、そして私たちの真ん中に三人目の人キリストがいてくださるように」と語る 。つまり、キリストこそ人と人との友情を深めてくださる方だということである。
アルレッドによると、キリストとの友情は、人間の霊的な友情関係を通して成長する。この霊的友情の結ぶ実と祝福は、友情それ自体以外の何ものでもない 。アルレッドは言う。「人間の友情は、その共通性のゆえに、神との友情へとたやすく発展することができる」。さらに、「神は友情である」、なぜなら、「友情の内に生きる者は、神の内に生き、神もその者の内に生きるからである」 。
(2)ジョナサン・エドワーズ
それではプロテスタントの伝統の中では友情はどのように理解されていたのだろうか。まず先に引用したエドワーズの見解を参照する。エドワーズによると、クリスチャン同士の交わりには霊的祝福が伴っているが、神との交わりはそれ以上に価値のあるものであった。それでは、エドワーズの信仰の歩みにおいて、キリスト者同士の交わりすなわち「友情」は、どのような位置を占めていたのだろうか。
エドワーズは一日10時間以上書斎で過ごす言わば書斎の人であって、社交的な性格ではなかった 。その一方で、エドワーズはスコットランドの長老や牧師たちと手紙のやり取りを通して友情を培っていた。また、若き日のエドワーズは、最初の赴任先であるニューヨークの長老派教会での牧会中、ジョン・スミスという人物の家に間借りをした。スミスとエドワーズは、時々、神について語り合うためにハドソン川の岸辺をともに散歩した 。このように、エドワーズにとって神との交わりとキリスト者同士の友情は、二者択一の問題ではなく、表裏一体のものとして霊的成長に必要なものであった。
(3)フィリップ・シュペーナー
ドイツ敬虔主義の創始者フィリップ・シュペーナーは、霊性を関係性と共同体の視点から位置づけていた。この点は、敬虔主義を個人主義や主観主義として批判する一般的な評価を見直す要素として注目する必要がある。確かにシュペーナーは、ドイツ敬虔主義の先駆者ヨハン・アルントの影響から、キリスト者の生涯における新生あるいは内なる再生の重要性を強調している。しかし、シュペーナーが共同体的な交わりの中で若いキリスト者を霊的に養おうとしていたことも事実である。このような私的な交わりは「敬虔な者の集い」(Collegia pietatis)と呼ばれていた。この集いの目的は、参加者一人ひとりの友情と聖書による建徳であった 。シュペーナーはこの集いの聖書研究について、次のように勧めている。「学生めいめいが、つねに、各節について[重要だと]思うことを語ることを許され、彼がそれをどのようにして自分と他人とのために適用できると思うかを言えるようなしかたでなされるべきである。教授は指導者として、正しく観察されたことをすべて補強してやるべきである。・・・その際、学生たちは、彼らが聴いたことを実践するようにお互いに訓戒するのみでなく、これらの規律が従来顧慮されなかったところでは各人が探求しあうような、信頼と友情が学友間にうちたてられるとよい」(傍点追加) 。
まとめると、キリスト教の歴史の中で、「友情」というテーマは神学的な主題になることはなかったが、霊性の面では中心的な主題のひとつであった。中世中期のアルレッドは神を知るための術として友情を理解し、しかも友情それ自体をも祝福に満ちたものとして最重要視している。エドワーズは神との交わりを強調しながら、神との交わりを深めるためにキリスト者の交わりがもつ意義をも十分認めていた。シュペーナーは友情を建徳と敬虔のための望ましい前提として理解し、それを「敬虔な者の集い」で実践した。
それぞれの立場における強調点の違いを認めつつも注目すべきことは、霊性の形成は人間同士の生きた交わり(ここでは友情)を離れてはありえないということである。その意味で友情は、「霊性の形成と実践の場」として今後見直すべきテーマである。
おわりに
「霊性を形成し実践する場」としての友情を実際に見直してゆく上で、次の五つの点を提案する 。
(1)「神との交わり」と「人との友情」の関係は、二者択一ではなく、表裏一体である
神との交わりのうちに生きる者は、信仰者同士の交わりを深める。神に心を開くがクリスチャン同士では心を閉ざすということは、本来ありえない。クリスチャンにとって真の友情とは、お互いに対する愛と関心を抱くことを通してより深く神を知ってゆくものであり、真に霊的になることにつながる。
(2)真の友情とは、競争心、党派心、嫉妬と対立する
競争心や党派心、嫉妬はキリスト者の交わりを破壊する点で霊性の敵であり、他者の徳を求め喜ぶ友情関係こそ、神の内にある愛といのちを反映するものとして求められなければならない。それゆえ、クリスチャンは自分自身に「自分には信仰の友がいるだろうか」と自問する必要がある。もし信仰の友がいないなら、自分の心が競争心、党派心、嫉妬等に支配されていないかよく問うてみなければならない。そして、何が自分の心を人に対して開くことを妨げているのか、祈りのうちに探られる必要がある。
(3)真の友情とは、専門家のものではなく、日常的に誰でも経験できるものである
友情のプロなどいない。「霊性の形成と実践の場」としての友情という理解は、キリスト教信仰が専門家に依存するものではなく、キリスト者一人ひとりに与えられた日ごとの歩みであることを意味している。三位一体の神に基づく交わりとは、聖人や教職者のみに属することではなく、キリスト者一人ひとりが友人あるいは隣人に関わる関係の内に実現するものである。しかも、身近な人々との日々の交わりという日常的な場面から、友情は生まれ育っていく。「人がその友のためにいのちを捨てる」(ヨハネ15:13a)という究極的なところのみ求めていては、友情は育まれない。
(4)友情には、自然発生的な側面と、契約的な側面がある
男女の間の真剣な愛は、同棲ではなく結婚という契約関係に至る。同様に、友情も始まりは自然発生的でも契約的な側面をもつ。真実な結婚が二人を縛るのではなく二人を高めるものであるように、真実な友情もお互いを縛るのではなく自由のうちにお互いを成長させるものである。友情は自然発生的なものであるという側面だけを強調する人もいるが、友情が神に用いられ実り豊かなものになってゆくためには、ある種の契約的側面が不可欠である。「契約的」というと大げさな感じがするが、別の言い方をすれば「約束」、「ルール」、「エチケット」、「リズム」などと表現することもできる。たとえば互いの約束を守る、手紙(電話)をもらったら返事を書く(かける)、定期的に祈りの課題を交換する、定期的に交わる等である。
(5)友情とは、受けるだけではなく、与えるものである
友情とは相互的な関係である。いつも受けるだけあるいは与えるだけの関係は、友情ではない。友情によって相手を建て上げると同時に、その友情によって自分も建て上げられる。言い換えると、相手に自分を与えることによって自分も受けるのである。ここでジェームズ・フーストンのアドバイスを思い出す。リージェントカレッジの卒業を間近に控えた学生に対してこう語った。「リージェントを去った後に別の場所に移り新しい生活を始めると、『ここではリージェント時代のような友人がいない』と嘆く時が必ず来る。その時には、誰が自分の友になってくれるかを考えるのではなく、自分が誰かの友になることを考えなさい」。真の友情、そして真の霊性は、受けるだけではなく与えるもの、相互的な関係である。なぜなら、父、子、聖霊の交わりも愛し愛される相互的な関係なのだから。
Jonathan Edwards, Religious Affections (Edinburgh: The Banner of Truth, 1997), 300.
- Howard Marshall, The Epistle of John (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 1978), 104.
Jean Leclercq, The Love of Learning and the Desire for God: A Study of Monastic Culture, 3rd ed. (New York: Fordham University Press, 1996), 180.
Aelred of Rievaulx, Spiritual Friendship, trans. Mary Eugenia Laker (Kalamazoo, Michigan: Cistercian Publications, 1974), 1:1.
Aelred, 1:45-56.
Aelred, 3:84, 1:69, 1:70。
George M. Marsden, Jonathan Edwards: A Life (New Haven: Yale University Press, 2003), 349.
エドワーズとジョン・スミスの関係については以下の研究を参照。増井志津代「第一次大覚醒運動と環大西洋・植民地間交流:ジョナサン・エドワーズ『書簡』を中心に」、上智大学アメリカ・カナダ研究所、The Journal of American and Canadian Studies(『アメリカ・カナダ研究』)第20巻、110頁。
フィリップ・シュペーナー「敬虔なる願望」堀孝彦訳、『キリスト教教育宝典』佐藤敏夫編、第五巻(玉川大学出版部、1969年)所収、148頁。
同上。
「霊性の形成と実践の場」についての全体的な論考は、篠原明「霊性の形成に向けての基礎論的考察――キリスト教の霊性に関する三位一体論的アプローチ――」、2001年5月、日本キリスト教教育学会『キリスト教教育論集』第9号、1~12頁、を参照のこと。
(2006年3月発行 レインボーNo.34掲載)