聖書から見る教会教育 クリスチャンの霊的成長について
第3回「三位一体の神とキリスト者の霊性」
はじめに
「三位一体」ということばを聞くと、ある宣教師のことを思い出す。その宣教師は私が説教や聖書研究で「三位一体」ということばを使うと、おもむろに顔をしかめた。そして必ず後で、「三位一体という、十分に説明できない難しいことばを、求道者の前で使うべきではない。つまずきになる」と注意してくるのであった。
その宣教師が言いたいことはよくわかる。私たちはよく、「神が唯一なら、なぜ父、子、聖霊がいるのか」「父なる神、子なる神、聖霊なる神がいるなら、一神教ではなくて三神教にならないのか」などと言い、1+1+1=1となるように数合わせをし、何とか説明をつけようとする。
その一方で、アウグスティヌスは、もし私たちが三位一体を完全に理解できるとしたら、それはもう神ではないと言っている。人間の理性が説明し尽くせる神とは、もう神ではないのだ。そこで私たちは発想を転換しなければならない。すなわち、「父、子、聖霊がいるのに、神が唯一であることをどのように説明できるか」ではなく、「神が父、子、聖霊であることの意味は何か」と問わなければならない。私たちは、神が三位一体なる方であることの意味を見失っているのかもしれない。
たとえば、三位一体論への関心が高められるために多大な影響を与えたカトリックの神学者カール・ラーナーは、西洋のキリスト教は神が「一体」であることに終始していて、神が「三位」であることの意味を見失っていると指摘している。それゆえ、皮肉を込めて、西洋のキリスト教から三位一体の教理を取り除いても、実質的に何も失われないと批判している。その意味でも、私たちは、神が三位一体なる方であることの意味を見失っているのではないか。
前回の「霊性と神学は敵同士か――霊性の神学的基礎」の中で、神がどのような存在であるかということが私たちの霊性を左右することを見た。今回は、その神が三位一体の神であるということが、私たちの霊性とどのような関係にあるかということを考える。
1.三位一体の神――その満ち満ちた豊かさ
たとえばマクグラスは、三位一体の神について次のように述べている。「キリスト教における三位一体の教理の基本テーマは、神の豊かさであり、人間の言語も想像力も神の神秘を完全に理解することが不可能であることを示すことである」。このように、三位一体の神が父、子、聖霊の交わりとして永遠に存在していることは、神のうちに愛と喜びが満ち満ちていることを表している。
したがって、キリスト者が三位一体の神を信じているということは、人間の理解を超えた神をあがめ、この神自身が父、子、聖霊としてどれほど豊かな交わりのうちに生きているかに圧倒され、その交わりの祝福にあずかることを求め続けることである。
2.三位一体論の初期の歴史――「三つの位格と一つの実体」
マクグラスの見解を参考に歴史的に見ると、教会の最初の数百年間において、父なる神の神性が疑問視されたことはまずなかった。そして、三位一体の教理が定式化されるまで、三つの段階を経た。第一段階はイエス・キリストの完全な神性の承認。第二段階は聖霊の完全な神性の承認。第三段階は三位一体の教理の決定的な定式化。「三位一体」という用語はテルトゥリアヌス(160頃~225頃)によって発明されたことばである。
三位一体は伝統的には「三つの位格、一つの実体」と記述されてきたことが重要な意味をもつ。すなわち、唯一の神は同時に父、子、聖霊という三つの異なる位格(人格)として存在するという、キリスト教の神観の根幹を規定する理解である。
アウグスティヌスに代表される西方教会と、カパドキアの三教父(カイサリアのバシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオス)に代表される東方教会では、異なる形で三位一体が発展する。西方教会では神が「一つ実体」であることが強調され、東方教会の伝統では神が「三つの位格」であることが強調されてきた。
3.「ペリコレーシス」と「充当」
さらにマクグラスの指摘によると、「三つの位格、一つの実体」という三位一体の理解は、「相互内在」(ペリコレーシス)と「充当」という二つの概念を中心に発展した。この二つの思想は三位一体の神を理解する上で、そしてキリスト者の霊性を理解する上で非常に重要なものなので、よく理解する必要がある。
(1)相互内在(ペリコレーシス) これは「父、子、聖霊はご自身を相手に完全に与え、相手の内に生きる」という理解である。相互内在は、三位一体のそれぞれの人格である父、子、聖霊は、互いに他の人格のうちにあるいのちを共有し、しかもそれぞれが行なう業は、他の人格も分離することなく関わりをもつという理解である。たとえば、天地創造のわざは通常父なる神の業として理解されている。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という使徒信条はそのことを語っている。ところが、創造のわざには、御子も聖霊もともに関わり、表れており、父なる神の単独で孤独なわざではない。御子と聖霊の業についても同様である。
以上のような三位一体の相互内在をまとめると、「父、子、聖霊はご自身を相手に完全に与え、相手の内に生きるということ」と言い換えることができる。
ヨハネ福音書14章6~11節を見てみよう。10節でイエスは、「私が父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる神が、ご自分のわざをしておられるのです」とおっしゃった。イエスを見た者は父を見たのである。御子なるイエスの内に父が生きておられ、御子も父の内に生きている。御父は御子を通してご自身の業をなさる。私たちがこの御父のもとに行くのは、御父が永遠に愛するひとり子イエス・キリストを通してのみである。ここに、父、子、聖霊の満ち満ちた愛と喜びの交わりの内に、私たちもキリストにあって神の子として与かることが示されている。
(2)充当 充当とは「父、子、聖霊は永遠にそれぞれのご人格とみわざの独自性を失わない」という理解である。岩波国語辞典によると、充当とは「その事の用に当てること」と説明されている。神学的に言うと「充当」は、「三位一体の3つの位格すべてが三位一体の外に向かってのあらゆる行為において働いているものの、そうした行為をある1つの位格に固有の業と考えるのは適切である」ということを示している。つまり、父、子、聖霊は、永遠に愛の交わりの内に生きておられるにもかかわらず、自分と相手との区別と境界線を失うことなく、それぞれのご人格がそれぞれ特別な存在であり続ける。父は父、子は子、聖霊は聖霊のままだ。たとえば、相互内在にもかかわらず、創造はやはり父のわざであり、贖いは御子のわざである。父、子、聖霊のそれぞれが十字架のわざに関わったが、実際に十字架に架けられたのは御子である。
たとえば、第二コリント1章21~22節を見ると、父、子、聖霊のわざが書かれている。「わたしたちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました」。ここで、父(神)、子(キリスト)、聖霊(御霊)を入れ替えてしまうと、話がめちゃくちゃになる。相互内在ではあるが、充当(それぞれの人格の独自性は失われない)である。
要約すると、このような三位一体の充当を言い換えると、「父、子、聖霊は永遠にそれぞれのご人格とみわざの独自性を失わない」ということができる。
4.交わり――相互内在と充当の展開
ジェームズ・フーストンは「三位一体の神学は必然的に交わりを生むものである」と言っている。したがって、私たちが三位一体の神を信じる者として信仰の歩みを吟味する際、交わりあるいは関係性という観点は不可欠である。それは、上で述べてきた相互内在と充当にも密接に関連している。このことが三位一体と霊性の関係に深く関わっている。
第一に、相互内在、すなわち「父、子、聖霊はご自身を相手に完全に与え、相手の内に生きる」ことを私たちはどう具体的に求めていくことができるのか。それは<自分自身を与えること>を通してである。<自分を与えること>と<自分を犠牲にすること>は似ているけど強調点が異なっている。<自己犠牲>にはその高潔さと同時に否定的なニュアンスが伴っている。しなくて済むならしないで済ませたい、自分を犠牲にすることで自分の人格や尊厳が踏みにじられる、等である。自己犠牲は真の意味で尊いことである。ところで、ここで注意したいのは、欧米の個人主義の文化と違って、日本文化は個人の人格と尊厳を踏みにじる側面があるということである。ここでアメリカ留学中のある経験を思い出す。私はある授業の中で、人格の大切さということを話し合っていたとき、今までの私の日本での生活の中で、私の人格が重んじられたと実感した経験を思い出そうとした。しかしついに思い出すことができなかった。むしろ逆に、日本文化の中には人格を踏みにじる要素が満ち満ちているのではないか。典型的な例が伝統的社会での嫁の立場である。
だからここで敢えて、<自分を与えること>と表現した。これは積極的な意味で、相手のために自分の時間、労力、お金、心、そして自分自身を差し出すことだ。これは愛の実践である。
私たちは、ややもすると、逆のことをしてしまう。自分で自分を守ってしまう。自分の時間、労力、お金、心のゆとり等々。これはある意味で必要なことだ。先ほど挙げた、人格を踏みにじる文化の中では、自分の身を自分で守る必要が出てくる。ここで問題にしているのは、自分の身を守ろうとする余り、自分を貧しくしてしまうことだ。自分を与えることを通して、逆に自分も豊かにされる。自分を与えることで人を豊かにすることを通して、自分も豊かにされる。これが神のかたちに創造された人間の生き方ではないか。
それでは、職場、学校、家庭、教会で具体的にどうしたらいいだろうか。実際、自分を与えることは際限ない。この問題に具体的な特効薬やマニュアルはない。一ついえることは、自分はキリスト者として、キリストがすべてを与え尽くしてくださったことにより、すべてのものをもっている者として、満ち足りることを知る必要がある。その上で、周りを見ると、どのように自分を与えたらよいか少しずつ分かってくるのではないか。自分を守っていると見えてこない。三位一体の神にあって、神の子として満ち足りていると見えてくる。
第二に、「父、子、聖霊は永遠にそれぞれのご人格とみわざの独自性を失わない」という充当の思想は、どのように具体的に実践することができるのか。<相手(他者)を生かすこと>を通してである。父、子、聖霊が、永遠に父、子、聖霊としてのご人格の独自性を失わないように、私たち一人一人の人格の独自性も、掛け替えのないものである。それを大切にしなければならない。
「相手を生かす」ということを考えるとき、いつも思い出す経験がある。私がかつて集っていた教会で、私はあるとき特別伝道集会の担当をしていた。伝道集会のたびごとに、集会に必要な奉仕者を私は依頼していた。ところが、私が実際にしていたことは、奉仕分担リストを埋めることだった。奉仕を依頼して断られることはほとんどなかった。だがある時、ある人から「私がいつもこの奉仕を引き受けるとは思わないでください」と言われたことがあった。今思うと、私はそのとき、人を生かしているのではなく、奉仕分担表を埋めていただけだった。そうであってはならない。そのような人との関わりは、相手を生かしているのではなく、相手も自分も貧しくするものである。三位一体の神のなさるわざは、父、子、聖霊が、愛と喜びの交わりの中でそれぞれのご人格とみわざの独自性を失わなかったように、キリスト者一人一人を生かすものだ。
おわりに
三位一体の神とキリスト者の霊性との関係を、三位一体の神における愛の交わりの中にその模範があることを見てきた。最後に、霊的成長に向けたもうひとつの提案をして終わりたい。それは「他者を迎え入れる」ということだ。私たちは、個人としても教会としても、他者や外部の人に対して開かれている必要がある。具体的には、人の意見・忠告を取り入れる(少なくとも考慮してみる)、お客さんを招く、一緒に食事をしたりお茶を飲む、旅人をもてなす、家族(夫、妻、子ども、親)の話に耳を傾ける等。その前提は、自分が変えられることをよしとし、恐れないということ。キリストのゆえに私たちは全てのものをもっているのだから。
さらに言うと、「他者を迎え入れる」ということは、相手のために自分が何かをすることだけではない。相手が自分に対してしてくれる好意を喜んで受けることも、「他者を迎え入れる」ことである。俗に言うと「誰かの世話になる」ことである。これは日本人クリスチャンにとっては考え直さなければならないことだと思う。なぜなら、私たちは「受けるよりも与えるほうが幸いである」ということばを一面的に捉えて、あたかも人から何かを受けてはいけないかのように思ったり、逆にクリスチャンの善意に甘えて、何でも人にしてもらおうと思ってしまうことがあるからだ。そのどちらでもなく、人の好意を素直に受けることは、その人の人格を神に愛されている者として「迎え入れること」であり、そのことがその「相手を生かす」ことになり、三位一体の神のあり方に基づく霊性を実践することになるのではないだろうか。
参考文献
Alister E. McGrath, Christian Spirituality: An Introduction (Oxford: Blackwell, 1999).
A.E.マクグラス『キリスト教神学入門』神代真砂実訳(教文館、2002年)
Karl Rahner, The Trinity, trans. Joseph Donceel (New York: Crossroad Publishing, 1970).
篠原明「交わりにおける成長」キリスト者学生会関東地区卒業生会『コイノニア』第29巻通巻133号、2003年7~9月、7~9頁
(2005年7月発行 レインボーNo.33掲載)