聖書からみる教会教育 クリスチャンの霊的成長について
第2回「霊性と神学は互いに敵同士か―霊性の神学的基礎」
はじめに
「霊性(スピリチュアリティ)は冷静に扱われていない」などと言うと、「出た、おやじギャグ!」と冷やかされてしまいそうなので言うのもはばかられる。しかし、冗談はさておくとしても、霊性の問題は今日、いろいろな意味でクリスチャンの間で過剰な反応を引き起こすことが多いように思う。しかも冷静さを欠いた批判的な反応を。一方では、「霊性の問題こそ今日の福音派、いやキリスト教会全体の中で欠けているもっとも大切な課題だ。クリスチャンが霊的に満たされていないのは、また教会が成長しないのは、霊性についての理解が足りないからだ」というような声が聞かれる。もう一方では、それと対照的に「霊性の問題を強調し過ぎると、神学を学ぶ大切さや聖書を地道に釈義し説教してゆくことの大切さが軽視され、安易な経験主義、感情主義に流されていってしまう」というように、霊性に対する昨今の関心に警戒心をもつ。
なぜ、霊性の問題について多くのクリスチャンが過剰で一面的な反応を示してしまうのだろうか。霊性と神学は本当に互いに対立するものなのだろうか。霊性を強調すると神学的でなくなり、神学を強調すると霊的でなくなるのだろうか。
今回は、キリスト教において神学と霊性はどのような関係にあるのかについて考えてみたい。具体的には二つの点から考える。第一に、神学と霊性はどのような関係にあることが望ましいのかということ、第二に、霊性の問題を考える上で、神のあり方が霊性の神学的な土台になるということである。
1.神学と霊性の関係
霊性と神学を互いに対立するものとして理解する傾向は、時として神学校で教える教師の間にも見られることがある。このような傾向について旧約学者のブルース・ウォルトキは次のように指摘する。霊性について教える教師は、聖書学者の厳格さが霊性に関する自分の意見を破壊すると恐れる。また聖書学者は、霊性に関する見解が聖書の正確な解釈に基づいていないと批判する。ところがウォルトキは、聖書と霊性は互いに切り離すことができないものだと主張している。
それでは、霊性と聖書学・神学との関係についてどのように考えたらよいのだろうか。ここで手がかりとして、キリスト教における神学と霊性の関係について、アリスター・マクグラスの見解を参考に概観する。マクグラスはまず、神学と霊性の関係は、それぞれをどのように定義するかによって大きく変わってくると考える。西洋のキリスト教の歴史において、神学ということばが徐々に信仰に関する知的で学問的な教理的内容を意味するようになった。このようにして神学は、「知的で学問的な教理体系」であると理解されるようになった。さらに18世紀ヨーロッパの啓蒙主義の影響によって、神学は学問的に中立なものと見なされるようになり、抽象的な概念であり、教師も生徒も神学が教える教義内容にコミットする必要などないと考えられるようになった。
ところがこれは、明らかに「神学とは何か」ということについて信仰の先人たちが理解してきたことと異なるとマクグラスは指摘する。神学とは単なる教理内容の論理的配列ではない。神に出会うということは、私たちを変える力をもつものである。カルヴァンが言うように、神を知るということは神によって自分自身が変えられることであり、本当の意味で神を知るということは、神を礼拝する者となることである。その意味で神学を学ぶ者は、学んだ内容にコミットすることが要求される。
以上、マクグラスが述べるところを要約した。もし私たちが、神学と霊性が相反するものであり、神学を重んじることは霊性を軽視することであり、霊性を強調することは神学を軽んじることであると考えているとしたら、それはまさに神学についても霊性についてもともに歪んだ理解をもっているのではないだろうか。しかし、神学と霊性との関係は、本来対立的なものでもなく、また二者択一しなければならないようなものではないのではない。むしろ神学と霊性は表裏一体であって、本当に神を知るということはその神によって自分自身が変えられることである。クリスチャンが霊的に成長するということは、神を真の意味で知っていくことである。その意味で、真の神学は霊的なものであり、真の霊性は神学的なものである。
2.神はどのような方であるか――霊性の神学的基礎
それでは、「真の神学は霊的なものであり、真の霊性は神学的なものである」ということを、聖書と神学に基づいてどのように説明することができるのだろうか。ここではその問題を「霊性の神学的基礎」という観点、すなわち「霊性の土台としての神学」という観点から考えてみる。
先に触れたマクグラスは、「霊性の土台としての神学」に関して、神学がどのように霊性を方向づけるかについて、創造、人間論、三位一体、受肉、贖い、復活、終末論という七つの教理を取り上げ、それぞれの教理の内容がクリスチャンの霊性にとってどのような関係があるのかを論じている(詳細は35~81頁参照)。
ここでは特に、神のあり方がクリスチャンのあり方を規定するという観点から霊性の問題を考えてみたい。
第一に、聖書は至る所でクリスチャンとしての成長を、神がどういう方であるかをモデルとして語っていることが挙げられる。「だから、あなたがたは、天の父が完全であるように、完全でありなさい」(マタイ福音書5章48節)。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」(エペソ書4章13節)。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」(ローマ書8章13~14節)。ここに引用した三つのみことばを見て興味深いのは、父、子、聖霊という三位一体の神との関係でクリスチャンの成長が教えられていることである。特にマタイとエペソのみことばは、父なる神の完全さと御子の満ち満ちたさまがクリスチャンの成長の目標であることを語り、ローマのみことばは、この成長を実現させるのがまさに御霊の導きであることを教えている。三位一体の神の存在と働きこそが、クリスチャンの霊的成長の土台である。
第二に、クリスチャンの霊性が全面的に神の存在と働きに依存するということは、「神を知ること」と「自分自身を知ること」が霊的成長にとって不可分の認識だからである。神を知り自分を知るという二重の認識は、歴史的に見ても、修道士の父と呼ばれるエジプトのアントニウス、アウグスティヌス、クレルヴォーのベルナルドス、カルヴァンという代表的なキリスト教思想家によって強調されてきた。たとえばカルヴァンは、『キリスト教綱要』の冒頭においてこう述べる。「われわれの知恵で、真理にかない、また、堅実な知恵とみなされるべきもののほとんどのすべては、二つの部分からなりたっている。神を認識することと、われわれ自身を認識することとである。ところが、このふたつは多くのきずなによって互いに結びつけられているので、どちらが他に先立つか、どちらが一方を生み出すかを見わけることは容易ではない」(I-i-1)。カルヴァンは続けて、神を知ることと自分を知ることは表裏一体であって分けることはできないが、「正しく教える順序」として、神を知ることから『キリスト教綱要』の記述を始めている。われわれが霊性を追求するとき、神を知ることと自分を知ることを抜きにしてその実現はありえない。しかもこの二重の認識は、聖書に基づいて神を知ることから始めることがふさわしい。
第三に、「神の栄光と美しさ」こそ、聖書を通して神を知ったクリスチャンの多くが証言してきたところだからである。すなわちクリスチャンの霊的成長にとって、「神の栄光と美しさ」に捕えられ圧倒されることが重要な要素なのである。18世紀ニューイングランドのジョナサン・エドワーズも神の美しさと栄光を一心に追求し証言したひとりである。「神は、第一に、他のいかなる美しさとも無限に異なるご自身の神としての美しさによって、他のあらゆる存在から区別され崇められるべき方である」(224頁)。さらにエドワーズによると、神を真に知る者は、神の美しさとともにその栄光をも目の当たりにする。すなわち、真の聖徒は、「まず神が彼らを愛していることを知り、その上で神が麗しいことを知るのではなく、最初に神が麗しいことを知り、キリストが卓越し栄光に富んでいることを知り、その心が捉えられ、その愛の実践が度々ここから始まり、その上で、結果として、神の愛と彼らに対する偉大なる恵みを知るのである」(172頁)。エドワーズのことばを言い換えるなら、真のクリスチャンとは、神が自分に対して何をしてくださったかではなく、まず神がどれほど「栄光と美しさ」に富んでおられるかに心捉えられた者のことである。その意味でも、クリスチャンの霊性とは、神がどのような方であるかを土台にしている。
おわりに
以上、クリスチャンの霊性は、クリスチャンが信じている神がどのような方であるかを基礎としていることを聖書と神学の証言を通して見てきた。その意味で、「真の神学は霊的なものであり、真の霊性は神学的なものである」と言うことができよう。これは前回、霊性の定義の問題について論じた際に、霊性は神学と生活を統合して捉える視点と生き方であると結論づけたが、その結論を裏付けるものである。それでは、「真の神学は霊的なものであり、真の霊性は神学的なものである」ということを、私たちは日々の信仰生活の中でどのように実践することができるだろうか。
ここで前回も紹介したユージン・ピーターソンの霊性理解を再び参考にする。「キリスト教の霊性とは、福音の全体を生き抜くことである。すなわち、霊性はあなたの生活のすべての要素――子ども、配偶者、仕事、天気、財産、人間関係――を含み、そのすべてを信仰の行為として経験することである。神は私たちの生活のすべてのものを望んでおられる」(4頁)。このように、私たちは生活のあらゆる場面で、「この経験は、福音とどう関わっているのか」、「この出来事は、神学のどの部分を具体化したものか。創造か、贖罪か、和解か、希望か」等のことを問いながら、神の臨在とみわざに対して私たちの霊の目が開かれるように祈るのである。なぜなら、霊性とは、私たち人間のわざではなく、神のわざなのだから。
次回は、神が三位一体の神であるということと、私たちの霊性との関係について考える。
参考文献
Jonathan Edwards, Religious Affections, (Edinburgh: The Banner of Truth, 1997).
Alister E. McGrath, Christian Spirituality: An Introduction (Oxford: Blackwell, 1999).
Eugene H. Peterson, The Contemplative Pastor: Returning to the Art of Spiritual Direction (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 1989).
Bruce Waltke, “Exegesis and the Spiritual Life: Theology as Spiritual Formation,” Crux 30, no. 3 (September 1994): 28-35.
ジョン・カルヴァン『キリスト教綱要I』渡辺信夫訳(新教出版社、1962)
(2004年12月発行 レインボーNo.32掲載)