聖書から見る教会教育 クリスチャンの霊的成長について第8回

『キリスト者の生活の全体像―<自己変容>のために』

 

はじめに
以前、ある若い牧師とこんな会話をしたことを覚えている。「神学校で教わる先生の中には二つのタイプの人がいる。授業を受けている時はすごい先生だなと思うけど、卒業してからはほとんど思い出さない先生。もうひとつのタイプは、授業を受けている時はそれほど印象に残らなかったけど、卒業してから『あの時言っていたことばの意味はこうだったのか』とよく思い出す先生」。その時の会話では、聖書と神学の単なる知識だけではなく、それを身をもって生きている先生のことばと人柄が私たちの中に生き続けて、私たちの力と励ましになるという結論に至った。
私も実はよく思い出すことばがある。ある先生が授業で「今日の福音派の教会は、キリスト者の生活の全体像を描けていない。これはスピリチュアリティ(霊性)に関わる領域の問題だ」と語った。それ以来私はこのことばを機会あるごとに思い出す。私たちはどうだろうか。自分のキリスト者としての歩みの全体像を描けているだろうか。キリスト者として成長してゆくということがどういうことか、具体的に捉えているだろうか。あるいは教会の説教は、「キリスト者の生活の全体像」を明確に描いているだろうか。
今回は、この「キリスト者の生活の全体像」を描くことを試みる。この「全体像」を外側から神学的に論述するだけではなく(それも重要なことだが)、内側からの経験的側面を掘り起こすために、「自己の変容」(transformation of self)の問題も併せて考える。「自己の変容」とは、自己が神の恵みにより魂の深みから全存在に至るまで変えられてゆくことを指す。
「自己の変容」という視点から「キリスト者の生活の全体像」を描く試みを行なうに当たって、カルヴァンの『キリスト教綱要』の中で「キリスト者の生活」を扱った章として知られる第3巻第6~10章を取り上げる。福音主義信仰の源流の一つである宗教改革、そしてルターとともにその中心に位置するカルヴァンの見解を「鏡」として私たちの信仰の歩みを映し出し、そのことを通して「キリスト者の生活の全体像」の一端を描き出すことを試みる。読者の中には「私はカルヴァン主義者ではない」という方がいるかもしれない。私自身、改革・長老系の教会に属する者ではない。そうではあるが、事あるごとにカルヴァンの著作に照らし合わせて自分の聖書解釈と神学的思索を研ぎ澄ましてきた。その意味で、「キリスト者の生活の全体像」を考えるに当たってカルヴァンは重要な「相談相手」であることは間違いない、と私は思う。
以下、カルヴァンの論述に従って、まずキリスト者の生活の「目標」としてカルヴァンが挙げる「聖さ」の問題を取り上げ、次にこの「聖さ」に至るための四つの「規則」ないし「方法」について『綱要』の記述に基づいて論じる。
1.聖さ―「キリスト者の生活」の目標
カルヴァンは『キリスト教綱要』の第3篇第6章から10章にかけて、「キリスト者の生活」について論じている。その記述は二部構成になっている。まず6章でカルヴァンは、キリスト者が生涯をかけて目指すべき「正しい目標」とは何かを明確にする。次に7~10章ではこの「正しい目標」に導かれるための「方法」ないしは「規則」について論じる。
まず最初(6章)の問題である。キリスト者の生活が目指すべき「正しい目標」とは何か。聖書は何と教えているか。カルヴァンによるとそれは「聖潔」であり「聖さ」である。その根拠となるみことばは「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」(レビ19:2、第一ペテロ1:16)である。これは私たちの「聖潔の功績」によって神との交わりに入れられるということではない。聖さを求めることは、神の召しへの応答である。カルヴァンは言う、「神の召しに答えたいならば、われわれの召しのこの目的にいつも注視しなければならないことを教えるのである(イザヤ35:8その他)」(III-6-ii)。
さらに、私たちはキリストに似た者となるように召されたのである。「さらに、聖書はわれわれをいっそうよく目覚めさせるために、キリストにおいてわれわれを御自身に和解させたもうた父なる神は、そのようにまたキリストにおいて、われわれに『形』を〔範例またひながたとして〕証印し、われわれがこれと同じ形になるように欲したもうのである(ローマ6:18)」(III-6-iii)。「われわれは、われわれの生活において子となるためのきずなとして『キリストを表わす』という条件のもとに、主なる神によって子とされるのである」(III-6-iii)。
カルヴァンはここで、キリスト者が目指すべき「聖さ」という目標は、福音の本質に関わるものであると捉えている。「福音というものは舌の教えではなく、生そのものの教えだ」(III-6-iv)。福音は、「たましいの全体を占有し、心の最も奥まった感情のうちにその座と隠れがを見いだすときにのみ、受け入れられるものなのである」(III-6-iv)。「福音の効力は哲学者たちに冷やかな勧告よりも百倍も強力で、心の最も奥まった感情に浸みわたり、たましいのうちに座を占め、全人格をゆり動かすものだ」(III-6-iv)。
このように、キリスト者は「福音的な完全さ」を常に熱心に追求すべき目標として求めなければならない。「完全さ」とは「見せかけ」や「作りごと」をもたない「たましいの誠実な単純さ」のことである。「われわれはこのことを全生涯にわたって求め続け・追求し続けなければならない」(III-6-iv)。

2.「聖さ」再考
上に見たように、カルヴァンは「キリスト者の生活」が目標とすべきものは「聖さ」であると位置づけている。それではこの「キリスト者の生活の目標としての聖さ」という理解は、「自己の変容」という霊性の中心に位置する問題に取り組むに当たり、どのような助けとなるだろうか。
私たちが考えなければならないことは、「だれの聖さか」という問題である。勿論「私たちキリスト者の聖さ」であり、ひとりひとりのキリスト者が聖められていくことである。実はここに落とし穴がある。キリスト者が何よりも求めなければならないことは、「自分自身の聖さ」なのだろうか。
ここでティーリケの『主の祈り』の一節が参考になる。ティーリケは「御名があがめられますように」という祈りに関して、私たちの祈りは自分自身が聖められることを求める願いから始まるものではなく、神の御名こそがあがめられること(聖められること)から始まるべきだと語る。私たちの聖化はそれ自体が目的ではない。主の御名があがめられるためである(61~70頁)。
それでは、ティーリケの見解はカルヴァンの見解と矛盾するのか。そうではない。カルヴァン自身はレビ記19章2節に基づいて、「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから」を引用して、神の聖さこそが、私たちが自分の聖さを求める根拠であると位置づけている。つまり、私たちが聖さを求めるのは、聖い神への応答である。
要約すると、キリスト者の生活の目標は聖さである。全生涯をかけて聖さを求める。なぜなら、神ご自身が聖なるお方であるから、その神を信じ、あがめる者として、聖さを求めるのである。

3.自己否定――聖潔に至るための<規則1>
「聖さ」というキリスト者が目指すべき目標を明らかにしたうえで、カルヴァンはその目標に至るための「規則」あるいは「方法」に話を移す。第一の規則は「自己否定」である。

(1)なぜ「自己否定」なのか
第一の理由は、「私たちが主のものである」という霊的現実である。私たちはもはや私たち自身のものではなく、主のものである。「われわれはわれわれのものではない。したがって、われわれはできる限り、己れ自身と、己れのものとを忘れなければならない。その逆に、われわれは神のものである。したがって、われわれは彼のために生き・彼のために死ぬべきである」(III-7-i)。第二の理由は、自己否定こそ、われらの主キリストが弟子たちの入門のはじめに命じたものだからである(III-7-ii)。それはキリストが「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)と語られたとおりである。
(2)「自己否定」とは何か
第一に、自己否定とは「主への従順」のことである。それでは従順とは何か。カルヴァンは言う、「『従順』とわたしが言うのは、単に御言葉への聴従ではなく、人間の精神が、自らの肉的感覚をむなしくして、神の御霊のよしとしたもうままに、全面的に変ることをさすのである」(III-7-i)。
第二に、自己否定とは自分自身のことも利害も忘れて、主の意志と栄光のみを求めることである。所有欲、権力欲、人からの好意、野心、栄誉を求める思い等をみな抹殺し去るのである。その上でカルヴァンは言う、「キリスト者は全生活をあげて神とかかわるべきである」(III-7-ii)。
(3)「自己否定」をどのように実践するか
カルヴァンは自己否定が、一方では「人々に関すること」であり、他方では「神に関すること」であると教えている。
①人に関する「自己否定」
第一に、人を自分よりもまさっていると思うこと(III-7-iv)。さらに私たちは、自分自身の悪を絶えず認識することでへりくだりへと導かれる。
第二に、隣人の益を求めること、隣人に奉仕すること(III-7-v)。神が私たちに恵みを与えるのは、その恵みを「教会の共通の益」として用いるためである。
第三に、すべての人に対して善を行なうことである(III-7-vi)。私たちがすべての人のために奉仕する根拠は、その人のうちにある「神のかたち」である。「人はそれ自身の功績によって見られるべきでなく、おのおののうちにある『神の形』こそが顧慮されねばならず、われわれのつくさなければならない尊敬と愛とはことごとくここにある」(III-7-vi)。
第四に、隣人に対する愛の義務を、ただ義務として行なうのではなく、「真摯な愛情」から行なうことによる(III-7-vii)。「キリスト者たちは、自分たちの助けを必要としている人の身になって、自分がこれを経験し、かつ忍ぶかのように、この不運に同情しなくてはならない」(III-7-vii)。
②神に関すること
第一に、自分自身と自分のものすべてを主の決定にゆだねること。主の祝福以外は求めないこと(III-7-vii)。これは言い換えると、不正な手段を用いて富や名誉を求めないことである(III-7-ix)。
第二に、さまざまな試練や逆境の中でも、父なる神の寛容と慈愛を見つめることだ(III-7-x)。これこそ逆境に耐える支えとなる。
(4)「自己否定」再考
「自己否定」とは今日、人気のあるテーマではない。ノンクリスチャンならまだしも、クリスチャンの間ですら決して喜ばれるテーマとは言えない。この数十年は逆に、「自己実現」や「自己啓発」のような自己を高める話が教会の内外で支持を得ている。
このように自己を万物の尺度にし、自己がすべての判断基準になっている状況を、ユージン・ピーターソンは「新たな三位一体」の出現として皮肉を込めて警告している。父、子、聖霊という正統的な三位一体の神に代わる「新たな三位一体」とは、「私の聖なる欲求」、「私の聖なる必要」、そして「私の聖なる感覚」の三者である。今日の社会で私たちは、生まれた時から私たちの欲求、必要、そして感覚を満たすことで生きている。
ピーターソンによると、ここで問題なのは、私たちが聖書と聖書が教える神を重んじながら、同時にこの「新たな三位一体」である私の欲求と必要と感覚に支配されていることである。ピーターソンが警笛を鳴らしているのは、「私の欲求」・「私の必要」・「私の感覚」が聖書を読む時の、そして神を信じる歩みの判断基準になっていることである。つまり今日のキリスト者は、自分の欲求・必要・感覚に合うように聖書を読み神を信じているのである。言い換えると、自分の欲求に合わなければ、聖書のことばも受け入れないし、神に従うこともしないのである(31~33頁)。
私たちは今日、もう一度、キリストの弟子であるとは「自分を捨てること」すなわち「自己否定」が求められているのだというカルヴァンのメッセージに、いやキリストのことばに耳を傾ける必要がある。「耳のある者は聞きなさい」(マタイ11:15)とは、パリサイ人だけにではなく、今日のキリスト者に向けて語られたことばである。
4.十字架を忍び耐えること―聖潔に至るための<規則2>
『キリスト教綱要』第3巻第8章は「十字架を忍び耐えること。これこそ自己否定の一部である」という表題がついている。
(1)なぜ「十字架を忍び耐える」のか
第一に、キリストの召しのゆえである。「キリストがその〔すべての〕弟子たちを『それぞれ自分の十字架を負う』ように召したもうところまでのぼらねばならないのである(マタイ16:24)」(III-8-i)。なぜなら、「主が選んで御自身の〔子たる〕ものの団体に入るにふさわしいとしたもうたものらは、辛苦にみち、労多く、安らぎなく、多種多様のわざわいに満ちた生涯を覚悟しなければならないからである」(III-8-i)。
第二に、長子であるキリストによる「忍耐の模範」に従うためである。キリストの全生涯は「ある種の恒久的十字架にほかならなかった」。われわれもさまざまな患難を経て、「キリストのかたち」に変えられ、キリストと同じ栄光へと導き入れられる(III-8-i)。「われわれが逆境に苦しめられれば苦しめられるほど、ますますキリストとわれわれとの結合が固くされるとは、十字架のすべての苦しみをやわらげる上に、どんなに力になることであろうか」(III-8-i)。
第三に、われわれが自分自身の弱さを知って、神にすがるためである。神の恵みがなければ、私たちは忍耐することも立ち続けることもできない(III-3-ii)。
第四に、私たちを「忍耐」と「服従」に導くためである(III-3-iv~v)。
(2)「十字架を忍び耐える」ことをどのように実践するか
第一に、十字架を忍び耐える道は、「へりくだり」の道である。私たちが十字架のもとに生涯を過ごすときの苦しみは、自分自身の力だけでは耐え忍ぶことはできない。へりくだらされて、神の御力を呼び求めることを学ばなければならない(III-8-ii)。「十字架は、このようにへりくださせてのち、ただ神にのみよりすがることをわれわれに教える」(III-8-iii)。
第二に、十字架を忍び耐える道は、「忍耐」の道である。カルヴァンは「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し」(ローマ5:3)を引用しながら、忍耐の意義について語る。「神が信仰者たちに、苦しみのとき、ともにあると約束したもうたのは、真実であったとかれらが感じるのは、神の御手に支えられて、かれらが忍耐強く踏みとどまったときである」(III-8-iii)。「したがって、『忍耐』は、神が約束しておられた助けを、必要なときに現実に示したもうことを、聖徒たちに経験させる」(III-8-iii)。
第三に、十字架を忍び耐える道は、「苦しみ」の道である。カルヴァンにとって「十字架を忍び耐える」とは多くの側面をもつ。その中心は、「十字架の苦しみを生きる」ということにある。これは「苦しみを耐え忍ぶ」ということであり、「苦しみを苦しむ」ということである。この点は重要なので、苦しみについてのカルヴァンの神学的思索をここでさらに詳述する。私たちは苦しみの中で、私たちに対する御父の寛容と慈愛とを認めてゆくのである(III-8-vi)。なぜなら父なる神が私たちを苦しみにあわせるのは、苦しめることが目的なのではなく、それによって私たちを罪と悪から解放しようとしておられるからである。さらに「義のための迫害」という苦しみもある。私たちが義のために迫害されるのを耐え忍ぶ時、「特別な慰め」が与えられる。「もしわれわれが自分の家から追放されるならば、われわれはそれだけますます神の家族のうちに受けいれられるのである。もしわれわれが苦しめられ・あなどられるならば、それだけますますわれわれはキリストのうちに固く根ざすのである」(III-8-vii)。それゆえ、キリストが「幸いなるかな」(マタイ5:10)と宣言し、「喜びなさい。喜びおどりなさい」と命じているこの状況の中で、私たちは自分を惨めに思うことがあってはならない。

カルヴァンは、「苦しみを苦しみぬくこと」に霊的な価値を見出している。苦しみの中でこそキリスト者は「神の霊的な慰め」のうちに安らう(III-8-viii)。「けれども、われわれには、いっさいのつらさや悲しみの感じを取り除く快活さが求められているのではない。そうでなくても、十字架においては、聖徒たちの耐え忍ぶものとして、悲しみにさいなまれ、わずらわしさにおしひしがれなかったものは何ひとつないのである」(III-8-viii)。「このような苛酷さの感情によって試みられるとき、それがどんなにきびしい労苦であっても、しかも勇敢に抵抗してこれを切り抜けるならば、信仰をもっている人間の勇敢さは明らかになるのである」(III-8-viii)。
カルヴァンはキリスト者の心の中に「なお矛盾が渦巻いている」ことを指摘する。すなわち、「かれらの自然的感覚は、己れにさからうものを避け・また恐れるが、しかし、敬虔の感情はこれらの困難の中で、神の意志に従おうとして戦うのである」(III-8-x)。「もしわれわれがキリストの弟子となろうと願うならば、神を尊び、神に従うことを心に満たし、反対するいっさいの感情を抑圧し、これを神の定めに服させるまでにならなくてはならない。こうして、われわれはどのような種類の十字架によって苦しめられても、たましいの最高の苦悶の中にあってすら、変わらずに忍耐を持ち続けるのである」(III-8-x)。キリストの全生涯が十字架の道であったように、キリストの弟子にとっても全生涯が十字架の道なのである。
(3)「十字架を忍び耐えること」再考
トリニティ神学校のケヴィン・ヴァンフーザーは、今日教会にとって最も重要なことは、キリスト者がキリスト教信仰独自の「知恵」を養い、個人の生活においても教会生活においてもその「知恵」を体現して生きていくことだと訴えている。そのために必要なことは、キリスト者が神学の生命力を再発見すること、そしてキリストの真理のために「喜んで死ぬ者」となるだけではなく、キリストの真理に基づいて「喜んで生きる者」になることだと指摘している(21頁)。
ヴァンフーザーのことばを「十字架を忍び耐えること」に適応するとどうなるだろうか。キリスト者が「十字架に死ぬ者」となるということは、「十字架に生きる者」になるということではないか。キリストの弟子が「十字架を忍び耐える」のは、キリストとともに死ぬことを通して、キリストとともに生きる者となるためではないか。「十字架を忍び耐える」というメッセージは、私たちが真の意味でキリストとともに生きる者となるために、避けて通ることのできない、いや全生涯を通して従わなければならないメッセージなのではないか。
5.来たるべき生への冥想―聖潔に至るための<規則3>
(1)なぜ「来たるべき生への冥想」が必要なのか
第一に、キリスト者はいつも「目指す目的」を見つめていなければならないからである。なぜなら、「われわれが現世の生を軽んじ、それによって、来たるべき生を瞑想するように駆り立てられることに馴らされるためである」(III-9-i)。というのは、この世には多くの誘惑と悲惨とが満ちているからである。「来たるべき生への願いと瞑想にわれわれの心が真剣に高められるのは、まずもって現世の生を軽んじることに習熟させられたとき以外にはない」(III-9-i)。
第二に、キリスト者にとって地上のものごとを軽んじるべきか愛すべきかは、どちらかを選ばなければならず、中間はないからである。「もし永遠についての配慮をもつならば、われわれはこれらの悪の足かせから身をふりほどくために、注意深く専念しなければならない」(III-9-ii)。
(2)「来るべき生への冥想」をどのように実践するか
第一に、それは現世の生を軽んじることである。なぜなら、現世は虚妄と悲惨に満ちているからである。戦争、暴動、掠奪、追放、不作、火災、貧困から愛する者との死別まで、この世は悲惨に満ちている。これは私たちが地上に幸福を求めず、目を天に向けるためである(III-9-i)。
第二に、現世の生を軽んじても、それを嫌悪したり、ましてや神の祝福に対する忘恩に陥ってはならない。神はこの世における多くの悲惨の中でも、恵みと祝福を与えておられる。それらを忘れてはならない。「この世に生きる間は天国の栄光に入るある意味での準備をさせられているのである」(III-9-iii)。                                 第三に、「来たるべき生」は全生涯をかけて瞑想するものである。「この世には、それ自体としては悲惨であるもののほか何ものもない、ということを悟りつつ、いよいよ快活に、またいよいよ備えを整えて、来たるべき永遠の生への瞑想に全生活を賭けてつとめるということである」(III-9-iv)。「もし、天が祖国なら、地上は亡命の地でなくて何であろう」(III-9-iv)。
第四に、死の恐怖を克服し、来たるべき不死を期待すべきである。「死の日と、終わりの復活の日とを、喜びをもって待望するものでなければ、キリストの学校において正しい進歩をとげることができない」(III-9-v)。つまり、終わりの日、最後の勝利の日、復活の日に目を向けて生きるのである(III-9-vi)。
(3)「来たるべき生への瞑想」再考
キリスト教の歴史の中で、「来たるべき生」あるいは「天」を瞑想することは、無数のキリスト者に希望を与えてきた。17世紀イギリスのピューリタンを代表するリチャード・バクスターは、『聖徒の永遠の休息』(The Saints’ Everlasting Rest)の中で「天」が与える希望についてこう教えている。「あなたが富も健康もこの世の楽しみももたない時、それでもあなたは慰めをもつだろう。助けてくれる友だちがひとりもおらず、牧師がいなくても、本がなくても、その他あらゆる手段があなたから取り去られても、それでもあなたは活気に満ちた、真の慰めを得るであろう。あなたの歩みは力に満ち、行動的で、勝利を得るだろう。そしてあなたが日々天から得る喜びはあなたの力となるだろう」(447頁)。私たちの父である神がおられる天を瞑想する時、私たちはこのような喜びと希望と力が与えられる。言い換えるなら、もし私たちがこのような天の希望を見失うなら、天が約束する喜びも希望も力をも見失うのである。
6.現在の生とその手段とをどう用いるか―聖潔に至るための<規則4>
(1)なぜ「現在の生とその手段をどう用いるか」について考えるのか
なぜキリスト者は「現在の生とその手段」すなわち「地上的な所有物」をどのように用いるかを考えなければならないのか。それは、神がお造りになった被造物すべては、地上での生活を考える上で無視することができないものだからである。この地上の所有物は生きるために「必要」なものもある一方で、「楽しみ」のために神が創造したものでもある。カルヴァンはキリスト者がもし「必要」なもの以外は用いることが許されないと考えるなら、それは「余りにきびしすぎる」意見だと主張する。このような見解は、「主の御言葉によってしばられるよりも、もっと狭い綱によって己が良心をしばりつける」ことになる(III-10-i)。その意味で、キリスト者は現世の手段を用いるに当たって、過度な厳格さも放縦も避けるべきである。
(2)「現在の生とその手段」をどのように用いるべきか
第一に、「現在の生とその手段」は、創造の目的に向けて用いなければならない。「神のもろもろの賜物は、創造者御自身がそれらを造り・定めたもうた目的に向けて用いるときは、誤って用いられることがない」(III-10-ii)。いつくしみ深い神は、私たちの必要なものに加えて、美しいさまざまの被造物をも造りたもうた。神は、私たちがご自身の創造物を私たちの必要のために使うだけではなく、それらを楽しむことも意図しておられたのである。
第二に、その一方で、同様の注意深さをもって「肉の欲」に対抗しなければならない。これら「現在の生とその手段」とは、私たちが創造者を知り、感謝をするために与えられたものである。「いっさいのものは、われわれがそれらの創造者を知るために、また、かれのわれわれに対する寛大さに感謝を捧げるために、定められている」(III-10-iii)。
第三に、私たちは貧しい時には平静かつ忍耐強く、豊かさには控えめに身を処することを学ばなければならない。「この世を用いるものは用いないかのようにせよ」(第一コリント7:31参照)というみことばを心がけなければならない(III-10-iv)。
第四に、召命を注視しなければならない。「ひとりびとりの暮らしは、いわば、主によって配置された持ち場のようなものであって、これによって生涯の全行程を無思慮にさまよわなくてよいようにされているのである」(III-10-vi)。
(3)「現在の生とその手段」再考
マクグラスはカルヴァンの霊性を「この世を肯定する霊性」(world-affirming spirituality)と位置づけている。この世界は神の創造であるがゆえに尊重され、肯定されるべきである。その一方で、この世界は堕落のゆえに批判的に理解されなければならず、贖われるべきものである。カルヴァンはこの世界が神の創造であり、堕落のゆえに損なわれていても創造の美に満ちているがゆえに、単にこの世界を悪と見なすのではなく、それを贖い回復することを求めていた(128頁)。その一方でマクグラスは、この世を征服したと思った瞬間に、実はこの世に征服される危険性も指摘している(124頁)。私たちも、神が創造した世界の贖いと回復を求め、また神の創造の美しさを喜び楽しむことを通して、神とそのみわざをほめたたえることを求めなければならない。

おわりに
「キリスト者の生活」とは、生涯にわたって神の栄光を求めながら自己が変容されてゆく歩みである。カルヴァンはそれを「聖さ」、「自己否定」、「十字架を忍び耐える」、「来たるべき生への瞑想」、「現在の生をどのように用いるか」という五つの点から語った。今回は詳しく触れることができなかったが、これら五つのことはすべて聖霊の力によって行なわれるものである。これまで見てきた「キリスト者の生活」に関するカルヴァンの見解は、今日も有効なのだろうか。私たちはこれら五つのテーマを語る説教を今日どれだけ聞いている(あるいは語っている)だろうか。もしこのようなテーマの説教がないとしたら、それはなぜか。カルヴァンは時代遅れなのか。私たちが宗教改革の精神から離れてしまったからなのか。それとも私たちは福音の本質からも外れてしまったのか。カルヴァンは私たちがこの問いにどう答えるかを迫っている。

<参考文献>
カルヴァン『キリスト教綱要 Ⅲ/1』渡辺信夫訳(新教出版社、1963年)
ティーリケ『主の祈り――世界を包む祈り』大崎節郎訳(新教出版社、1962年)
Baxter, Richard. The Saints’ Everlasting Rest, abridged by Benjamin Fawcett. Baker, 1978.
McGrath, Alister E. Spirituality in an Age of Change: Rediscovering the Spirit of the Reformers.
Grand Rapids, Michigan: Zondervan, 1994.
Peterson, Eugene H. Eat This Book: A Conversation in the Art of Spiritual Reading. Grand
Rapids, Michigan: Eerdmans, 2006.
Interview to Kevin J. Vanhoozer, “Experience the Drama.” Trinity Magazine (Spring 2006), 18-21.

篠原 明 (元聖契神学校講師)

(2008年12月発行 レインボーNo.38掲載)

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