聖書から見る教会教育クリスチャンの霊的成長について第7回

『信仰共同体としての教会 ―霊性を形成し実践する場 その3』

はじめに
私がアメリカ留学中に経験したことである。あるとき私は、授業やゼミでの議論が白熱していく中で、ひとつの「魔法のことば」があることに気がついた。このことばを使えば、必ず学生からも教師からも賛成を得られることばがあった。どんな話題について議論をしていても、その「魔法のことば」が使われると、アメリカ人の学生が決まって賛意を表すのであった。
その「魔法のことば」とは、「コミュニティ」であった。日本語では「共同体」あるいは「地域社会」などと訳される。たとえば、子どもの信仰の成長というテーマについて議論しているとき、「子どもが真に成長するためには、大人も子どももともに生きる『コミュニティ』が不可欠である」というような発言をすると、一同が同意する。「コミュニティなど必要ない」という反論は一度として聞いたことがなかった。まさに「コミュニティ」とは「魔法のことば」だった。
霊性の問題についても同様である。真の霊的成長を求めるなら、「信仰共同体としての教会」での交わりが不可欠であるという発言をたびたび聞いた。
私は「コミュニティ」ということばがこのように使われるのを聞くうちに、クリスチャンの信仰の成長における「信仰共同体としての教会」が果たす役割の大切さを改めて実感した。その一方で、「コミュニティ」とはそれほどいいものなのかという疑問も沸いてきた。アメリカのように個人主義の強い文化で生まれ育った人々(したがって本物の「コミュニティ」をまだ経験したことのない人々)にとっては、「コミュニティ」とは一種の理想郷のようなもので、それがあればすべての問題が解決されるという幻想を抱いているようにすら私には感じられた。なぜなら、日本のように集団意識・心理が強く、人目を強烈に意識して生きる文化に生まれ育った私としては、人と人とのつながりがもつ否定的な面も痛感していたからだ。もちろん、アメリカ人が言う「コミュニティ」と、日本人が言う集団意識・心理は同じものだなどと言えないことは明らかだが。一方は個人主義の行きづまりから共同体を求めるアメリカ人、他方は集団主義の呪縛から共同体への希望を失う日本人。どちらも人々の生活と心が深い絆で結ばれた「コミュニティ」を失っていることは、間違いないだろう。
今回は、「霊性を形成し実践する場」の第三番目として、「信仰共同体としての教会」の意味について考える。前回までの内容を復習すると、第一の場としての「友情」、第二の場としての「霊的導き」に続く、第三の場としての「信仰共同体」であり「教会」である。
1.「信仰共同体」と「霊性の形成」
まず、「共同体(コミュニティ)とは何か」という問題を考えておこう。私たちが日常的に「共同体」と言う場合、人々が何らかの絆で有機的に結ばれた集団のことを想像する。それが住んでいる場所を中心に形成されると「地域社会」、信仰者を中心に形成されると「信仰共同体」と呼ぶことができる。私たちは通常、信仰共同体のことを教会と呼んでいる。この信仰共同体である教会は、私たちの信仰の成長、特に霊性の形成とどのような関係があるのだろうか。この問題を考えるに当たって、最近翻訳出版されたスザーン・ジョンソン著『スピリチュアル・フォーメイション』が参考になる。ジョンソンは現在、アメリカのサザン・メ
ソジスト大学パーキンズ神学校で教鞭をとっている。表題の「スピリチュアル・フォーメイション」とは、「霊性の形成」という意味である。全体を通して、物語神学の立場に立った霊性理解を展開している。
この本全体の評価は別の機会に譲ることとして、ここではジョンソンが語る霊性の形成と教会、特に礼拝との関係について、二つの点に注目する。
第一に、プロテスタント主流派に見られる、霊性の形成に関する個人主義的傾向への批判である。ジョンソンにとって真の霊性とは、個人主義的なものではなく、信仰共同体の交わりの中でこそ培われるものである。「霊性の形成は、その中で人々が形成される共同体的場や信仰の伝統から離れて、簡単に理解できるものではない」(33頁)。「わたしたちの理解しうるところからすれば、教会について語ることなしに、キリスト者の形成やキリスト者の霊性について語ることは不可能である」(141頁)。
このように霊性の形成を個人主義的にではなく信仰共同体における事柄として位置づけるジョンソンの見解は、聖書的にはエペソ人への手紙(特に2章19~22節)に基づいている。エペソ人への手紙に見る霊的成長の特長について、ジョンソンは「信仰共同体全体の霊的成長が決定的であって、個々のキリスト者の霊的成長ではないと明言されている。それは全くびっくりさ
せるようなことである!」(123頁)と述べている。第二に、それでは「信仰共同体としての教会」における霊性の形成とはどのようなものなのだろうか。それは、教会に参与することによって、教会がもつ信仰的遺産に自ら与ることによる。
「私たちが学ぶ最初でしかも最も重要なその方法は、神の民との親しい交わりを保つことによるのである。神の民は語るべき物語を持っており、またわたしたちがそれに参与できるように助けてくれる。教会の存在とその活動のすべてに参与することによってのみ、わたしたちはキリスト者としてのアイデンティティーを規定するかの物語を学ぶことができるのである。霊性に対して最も強い影響を与えるのは、信仰共同体の中で分かち合う、物語、活動、そして感情である」(117頁)。
「まさにその本質からして、教会は霊的なケアと指導との環境である。それは、キリスト者の霊性の形成にとって決定的な場である。教会はその存在と行為との中に人々を巻き込みながら、直接的にもまた暗黙のうちにも霊的なケアと指導とを提供する。教会は、その証しと奉仕によって、典礼と準典礼の中でかの物語を演じることによって、説教し、教え、歌い、祈ることによって、実際的な霊的指導を与えるのである」(199頁)。このようにジョンソンによると、キリスト者の霊性は、「信仰共同体である教会」においてこそ形成されるのであって、その中でも特に礼拝が重要な役割を果たしているのである。
ジョンソンの指摘に刺激を受けて、「霊性を形成し実践する場」としての教会、礼拝、聖餐という三つの点について、さらに詳しく検証することにする。
2.「霊性の形成し実践する場」としての「教会」
神学的に理解するなら、三位一体の神の内にある愛の交わりをキリスト者が体験し実践する場は、信仰共同体としての教会である。この点に関して、まずミロスラーヴ・ヴォルフの見解を参考にする。ヴォルフはフラー神学校からプリンストン神学校に移って教鞭をとる福音主義の神学者である。ヴォルフは、教会が三位一体を反映する場であると位置づけている。すなわち、教会とは三位一体の神の交わりを反映し、特に聖霊の働きによって、「多くの者が、多元的でありながら互いに均衡を保ってともに生きる相互依存の場」である(217頁)。さらに教会とは、三位一体の神が一つの御霊を通して一人ひとりのキリスト者の内に生きて働く場である(219頁)。要約すると、三位一体なる神が父、子、聖霊の交わりとして永遠に存在するように、キリスト者も信仰共同体としての教会の中で交わりに生きる者なのである。
続いて、ユージン・ピーターソンの見解を検討する。ピーターソンは『キリストは幾千もの場所で演じている』(Christ Plays in Ten Thousand Places, 2005)の中で、聖書的霊性とは何かを三位一体の枠組みを用いて論じている。霊性の形成に関しても、キリスト者の信仰生活が徹頭徹尾交わりに生きるものであるという確信に基づき、信仰共同体である教会の交わりに与ることの重要性を強調している。ピーターソンのことばをいくつか引用する。
「信仰共同体に自ら加わり溶け込むことなくして、霊的生活における成長も、キリストに従うことにおける従順も、クリスチャン生活における統一性もありえない。私は、自分だけでは私自身でありえない。私たちの文化が何物にも増して誇りとしている個人主義ではなく、信仰共同体こそ、キリストが演じる舞台である」(226頁)。「霊性の形成は、まず第一に聖霊の働きであり、キリストの復活のいのちを私たちの内に形作ることである。……復活の共同体は、聖霊のわざである」(237頁)。 「神は父、子、聖霊として三つのご人格であられると主張することで、私たちは神が参与することを喜ばれる方であるという理解を与えられる。私たちは洗礼を通して、三位一体なる神の交わりのいのちの中に加えられる。霊的生活とは、神の存在とわざの中に参加することである」(305頁)。
このように、キリスト者がキリストの復活のいのちを経験するのは聖霊のわざによるのであり、具体的には信仰共同体である教会の交わりに生きることによる。したがってキリスト者は、三位一体の神のかたちである教会に参与することを通して神の愛を知り、神の愛を知った者として自らも愛する者とされてゆくのである。この点についてピーターソンは言う、「私たちは愛されることによって愛することを学ぶ」(327頁)。
3.「霊性を形成し実践する場」としての「礼拝」
カルヴァンは、神を知るということは単に神についての知識を頭に詰め込むことでも、神について議論することでもないと語っている。「さて我々の精神は、神に何らかの礼拝を捧げていなければ神を理解できない」(I-2-i)。「むしろ、神を知る知識の目的は、第一に、彼への恐れ敬いを我々に教え、第二に、我々がそれに教え導かれて、全ての善きものを神に求め、受けたものを神に帰するよう学ぶことでなければならない」(I-2-ii)。このように、カルヴァンを通してわれわれが学ぶことは、「神を知るとは、神を礼拝することである」ということである。神への恐れ、礼拝、敬虔のないところに、真の神知識はないのである。
このような理解に基づき、「霊性を形成し実践する場」という観点から、教会において「礼拝」が占める位置の重要性について再考する。
三位一体の神の内に神の愛も喜びも平和も真理もすべて満ち満ちているように、その神をあがめ栄光を帰する教会の礼拝も、三位一体の神の豊かさに満ち満ちたものでなければならない。問題は、「どのようにしたら、礼拝はそのように満たされた場になるのか」ということである。
この問いに対して、特効薬やハウツウはない。毎週日曜日を前にして、牧師や説教者が神の前で苦しみ抜く中で、神の恵みとあわれみによって、礼拝をそのように満ち満ちた場にしていただくしかない。その意味で、礼拝とは見世物やイベントのように人間が作り出すものではなく、神のみことばと御霊によって作り出されるものだ。
その一方で、「神の満ち満ちた豊かさ」が現される場としての礼拝を求めるために、「礼拝の豊かさとは何か」という問題を考えなければならない。リージェント・カレッジのゴードン・スミスは、神学教育の観点から、礼拝こそが神学と霊性を統合する場であると述べている(87頁)。普段私たちは、礼拝においていかにして神に思いを集中して、その他のことに気が散らないようにするかと心がける。これは大切なことだ。しかし、私たちは時として、神と神のことばに集中しようとするあまりに、神が与えてくださったものを礼拝の場と私たちの心から締め出そうと、あるいはそぎ落とそうとしていないだろうか。礼拝の豊かさという点からスミスの「礼拝こそが神学と霊性を統合する場」という見解を見ると、礼拝を豊かにするために、神のみに集中することと併せて、神が与えてくださったものを統合してゆくことも考慮しなければならないのではないだろうか。
このように「礼拝の豊かさ」と「神学と霊性が統合する場としての礼拝」という問題を考える上で、ヨーロッパ中世の修道院に関するジャン・レクレークの研究が参考になる。レクレークは、中世の修道院におけるひとつの特徴として、聖書も、経験も、古典研究も、伝統も、人間性もすべてが礼拝(典礼)の場で統合されていたことを指摘している(251頁)。現代のプロテスタント教会、特に福音派の教会において、このように信仰を統合する場が果たしてあるだろうか。三位一体の神にある「満ち満ちた豊かさ」は、その神を信じる者たちがともに集い神をあがめる礼拝の場においてこそ体験され実践されるということが、今後さらに追及されなければならない。その際忘れてはならないことは、神に集中するということが、神以外のあらゆる物を捨て去ることではなく、神にあって神学も霊性もすべてが統合されていくことである。
4.「霊性を形成し実践する場」としての「聖餐」
さらに、「信仰共同体としての教会」での経験を再考するに当たって、「聖餐」の重要性も見落とすことができない。
聖餐について論じるとき、多くの場合、化体説、共在説、象徴説、霊的臨在説等の学説の説明になる傾向がある。神学的に見ると、これらの諸説の理解が重要なことは言うまでもないが、どの立場を取るかによってキリスト者の間に分裂を生んできたことも歴史的事実である。ここでは、学説の説明ではなく、「霊性を形成し実践する場」という観点から「聖餐」が占める重要性を再考したい。
まず、聖餐は霊性の形成のためにどのような意味で重要なのだろうか。J.I.パッカーは、聖餐が意味しているのは、「信仰による主との交わり」であると端的に述べている(218頁)。このように、聖餐は「主との交わり」という信仰の霊的本質に関わるものである、という視点がもつリアリティをわれわれは回復する必要があるのではないだろうか。そのために、ヴォルフハルト・パネンベルクの見解が示唆に富むものである。彼の問題提起を見てみよう。
パネンベルクは、現代プロテスタントの霊性、特に敬虔主義の影響を受けた個人主義と罪責意識に基づく霊性理解に批判的である。パネンベルクは言う、「敬虔主義が、特にその後期のリヴァイヴァリズムの諸形態において、キリスト者が自己の罪責と罪深さを深く思いめぐらす、その冥想そのものを、神との交わりのための根本的にして恒常的な条件とした」(18頁)。言い換えるなら、自分の罪深さを知れば知るほど神との交わりが深まる、という意識である。
パネンベルクは、このような個人主義と罪責意識に基づく霊性理解こそ見直されなければならないと主張する。そのために必要なのは、「聖餐の再発見」であると提案する。パネンベルクの主な主張を引用する。
「聖餐の再発見ということが現代キリスト教の霊性という点において最も重要な出来事である、ということが明らかとなってくるだろう」(37頁)。
「新しい聖餐的経験の本質は徹底的に共同体的なものである」(59頁)。
「聖餐は教会の奥義を表わすものである。すなわち、それは信仰者各人がキリストとの交わりを与えられることにより、さらに彼らが相互に交わるようになることを示している。そして、それはさらに全人類の終末論的一致を象徴しているのである」(64頁)。
このようなパネンベルクの問題提起を受けて、私たちはどのように「聖餐」に臨んだらいいのだろうか。次の四つの点を吟味することを提案する。
第一に、聖餐は「感謝の場」である。そうであるにもかかわらず、聖餐に臨んで、私たちの心が「自分自身の罪深さ」に向いていないだろうか。聖餐とは何よりもまず感謝の場である。キリストの贖いの恵みに与る者とされたことを感謝する場である。しかし、私たちの心は感謝よりも「自分自身の罪深さ」に対する嘆きで満たされていないだろうか。キリストの十字架によって既に赦されている罪をことさら思い出して、「こんな罪人の私をキリストは救ってくださったのだ」という歪んだ態度が身に付いていないだろうか。
第二に、聖餐は「信仰による主との交わりの場」である。キリスト者は信仰によってキリストと霊的にひとつにされている。キリストとひとつにされ、キリストによって生きる者とされていることを、パンとぶどう酒に与ることによって味わい知るのである。
第三に、聖餐は「教会としての交わりの場」である。ともにキリストとひとつにされ、キリストのからだの一部とされた者たちが、互いに交わりに生きる者とされていることを体験し実践する場である。
第四に、聖餐は「天の祝宴を先取りする場」である。パンとぶどう酒に与るとき、私たちは自分自身の罪深さという私たちの内側に目を向けるのではなく、キリストによる創造と救いの完成に心を向けるのである。
おわりに
1998年の冬、私はリージェントでピーターソンによる「聖書の霊性」という授業を受講していた。聖書から、三位一体の神を信じる信仰に基づいて、ピーターソンが語るという、私にとって文字通り「世界一受けたい授業」であった。この授業の内容は、先に言及した『キリストは幾千もの場所で演じている』の土台となっている。
授業を重ねていくうちに、「聖霊による歩み」「聖められた生活」というテーマになった。私はピーターソンが語ることばを一言も漏らすまいという思いでノートを取っていた。そしてピーターソンが「聖められた生活を妨げるものは何か」という話をしていく時、私は一瞬、肩すかしを食った思いがした。それは彼が、聖霊による歩みを妨げ、聖められた生活の敵となるものは、「セクタリアニズム」(sectarianism)だと断言したからだ。それは「派閥主義」とか「党派心」と訳される。私は、「そんなものが霊的生活の最大の敵なのか」とがっかりした。御霊による歩みを妨げるものは、党派心のように日常的にどこにでもあるものではなく、パウロがローマ人への手紙7章で告白するように、私たち肉と魂の奥底に住みついている罪によるものだと考えていたからだ。
ところが、ピーターソンの話を聞くうちに、彼の言うとおりだと思った。「党派心」のように「自分こそ正しい」という思いこそ、教会の交わりを破壊するものだ。教会の交わりが破壊されるとき、そこには聖霊による歩みも、聖められた生活も、真の霊性もない。
私の心の奥底にも、からだ全体にも、「自分こそ正しい」「自分は人よりも優れた者になりたい」「負けたくない」「自分は特別だ」という思いが染み付いている。このような思いこそ交わりを破壊するものだ。クリスチャン同士の交わりを破壊し、キリストとの交わりを破壊する。クリスチャンが信じる神ご自身は、父、子、聖霊の交わりのうちに永遠に存在されるお方である。それゆえ、永遠の交わりのうちに存在する三位一体の神を信じるクリスチャンにとって、「信仰共同体である教会」における交わりに生きない限り、真の霊性はない。

主な参考文献
ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要 改訳版 第1篇・第2篇』渡辺信夫訳(新教出版社
、2007年)
スザーン・ジョンソン『スピリチュアル・フォーメイション』梅田與四男訳(一麦出版社
、2007年)
W.パネンベルク『現代キリスト教の霊性』西谷幸介訳(教文館、1987年)
Leclercq, Jean. The Love of Learning and the Desire for God: A Study of Monastic Culture. 3d
ed. New York: Fordham University Press, 1996.
Packer, J. I. Concise Theology: A Guide to Historic Christian Beliefs. Wheaton, Illinois: Tyndale
House Publishers, 1993.
Peterson, Eugene H. Christ Plays in Ten Thousand Places: A Conversation in Spiritual Theology.
Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2005.
Smith, Gordon. T. “Spiritual Formation in the Academy: A Unifying Model.” Theological
Education 33, no. 1 (Autumn 1996): 83-91.
Volf, Miroslav. After our Likeness: The Church as the Image of the Trinity. Grand Rapids,
Michigan: Eerdmans, 1998.

 (2008年2月発行 レインボーNo.37掲載)

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