クリスチャンの霊的成長について
第6回「霊的導き(続き)―導き手の『霊的資質』」
はじめに
想像してみよう。もしパウロが生きていた時代にケータイ電話があったとしたら、彼はそれを使っていただろうか。それともあえて使わなかっただろうか。私自身、パウロならどうするだろうかとしばらく考えてみた。考えてみると意外と難しい。パウロは使っただろうとも考えられるし、決して使わなかったとも考えられる。一方で、伝道と牧会のために、ケータイを駆使して連絡を取っているパウロの姿が思い浮かぶ。たとえば、「もしもし。おれおれ、パウロ。えっ、今どこにいるかって?コリントだよ。ローマに来てくれ?まだちょっと無理かなぁ……」などという会話をしていたかもしれない。あるいは大量のメールのやり取りをしていろいろアドバイスしていたかもしれない。その一方で、人々と直接関わることの大切さから、ケータイを使わないか、必要最小限にとどめていたようにも思える。皆さんはどう思いますか。
確実に言えることは、ケータイを使っていたとしたら、パウロが書いた手紙の数は間違いなく減っていただろうということだ。もしかしたら、ローマ人への手紙からピレモンへの手紙の中で、ケータイで事を済ませてしまい、書かれなかった手紙があったかもしれない。
これはあくまでも想像上のことに過ぎない。現にパウロの手紙は新約聖書の中に残されている。ケータイなど当時あったはずもない。実際のパウロは、自分で直接出向いて伝道をし、数年後には再びそこを訪問し、多くの手紙を書いて、彼が種をまいた教会を霊的に励ました。まさにパウロは「霊的導き」を行っていた。
今回も前回に引き続き、霊性を形成する場としての「霊的導き」について考える。第一は、リチャード・フォスター著『スピリチュアリティ 成長への道』における霊的導きの位置づけの問題。第二は、今日の福音派教会における霊的導きに関する新たな意識の問題。第三は、霊的導き手の「霊的資質」の問題。第四は、カルヴァンの視点による「霊的資質」の問題の再考である。
1.リチャード・フォスター『スピリチュアリティ 成長への道』より
ここで、最近翻訳されたフォスターの『スピリチュアリティ 成長への道』を見てみよう。この本の中でフォスターはキリスト教の伝統がもつ「霊的訓練」の価値を回復し実践することが、クリスチャンの霊的成長に欠かせないと主張している。そして「内なる訓練」として瞑想、祈り、断食、学習を、「外なる訓練」として単純、独居、服従、奉仕を、「共同体的訓練」として告白、礼拝、導き、祝賀を挙げている。ここで私たちの関心から注目するのは、フォスターが(霊的)導きの問題を「共同体的訓練」に位置づけていることである。神は出エジプト後のイスラエルの民を昼は雲の柱、夜は火の柱が導いたことを例に引きながら、聖霊の導きは「個人レベルにとどまるなら不十分」なものだとフォスターは指摘している。なぜなら、「個人への聖霊の導きは共同体への導きに従属するからである。直接的で活動的、かつ即刻の聖霊の導きという体験的知識は、群れの構成員すべてにとって『共同の』体験とならなくてはならない」(220頁)。フォスターは「霊的導き」をこのように教会あるいは信仰共同体に対する神の導きの問題として位置づけている。
それでは、フォスターは霊的導きをどのように捉えているのだろうか。三つの点からまとめてみる。第一に、霊的導きの目的である。それは相手の魂を、神の道へと導くことである。真の導き手である神のもとへと導くのである。その意味で霊的導きとは、「聖霊の内的な教えへの道を開くために神が用いたもう手段なのである」(232頁)。
第二に、霊的導き手(霊的指導者)の人格的聖さと成熟度の問題である。フォスターによると、霊的導き手は「ただ自分自身の人格的聖さだけで導くのである」(232頁)。「霊的指導者は、自分自身との関係において居心地よい自己受容を達成している人でなくてはならない。つまり、純粋なる人格的成熟さがその人の人生と生活全般に浸透していなくてはならないのである」(233頁)。「霊的指導者はまた、男性であれ女性であれ、自己の内面の旅をつづける人であって、自らの内なる葛藤や疑いをも喜んで分かち合えなくてはならない。導かれる者、導く者両者にとって、つねに共におられる真の教師であるイエスから、共に学んでいる、ということを悟っている必要がある」(234頁)。フォスターはこのように、霊的導きとは導き手自身がまず霊的に成熟した者であることが要求されることに光を当てている。言い換えると、自分自身が霊的に導かれていない者は、人を霊的に導くことはできないのである。
第三に、霊的導きは、「指導者」という立場や階級によらず、自然で友人同士のような関係である。フォスターによると、霊的導き手と「導きの受け手との関係は、ちょうど友人とその助言者である。むろん内的な深みについてははるかに練達しているが、両者は聖霊との交わりの次元において、ともに学び成長する関係なのである」(232頁)。「霊的指導者はまず自然の、ありのままの人間関係から生まれた。それが機能するためには階級組織的なシステムは必須ではないし、それはむしろ逆に破壊的に作用する。クリスチャン共同体に属している普通の分かち合いや互いへのケアこそが、霊的指導者の出発点なのである。そこから互いの従順や僕としての仕え合いを通して『神の国の権威』が流れ出るのである」(233頁)。言い換えると、霊的導きとは、霊性の専門家が素人を導くというような上下関係ではなく、ともに神の御前で神の臨在とみこころを求める友人関係である。
2.今日の福音派教会における「霊的導き」に関する新たな意識
福音派のクリスチャンにとって、霊的導きとは比較的新しい考えであり実践である。さらに正確に言うなら、ジェームズ・フーストンが指摘するように、福音派教会は霊的導きが教会で実践されてきた長い歴史を忘れてしまっている(81頁)。
次に、今日の北米の福音派における霊的導きについての見解を概観する。ここでおもに取り上げるのは、ユージン・ピーターソン、フーストン、キース・アンダーソンとランディ・リースの見解である。その特徴を三つの点から検討する。
(1)霊的導きの伝統との強い連続意識
全体的に見てこれらの著者たちは、キリスト教2000年の歴史における霊的導きの伝統との連続性を強く意識している。たとえば、アンダーソンとリースは霊的導きについて論じる時、アウグスティヌスに始まりリーヴォーのアルレッド、ノリッジのジュリアン、イグナティウス・ロヨラ、アビラのテレサ、十字架のヨハネ、ギィヨン夫人等に及ぶ多くのカトリック作家の著作に基づきながら、霊的導きとは何かを論じている。
その一方で、福音派の中にはカトリック作家の見解に基づいて霊的導きひいては霊性全般について論じることに、違和感と警戒感を持つ人たちがいることも事実である。例えばデヴィド・パーカーは、カトリックの霊性が福音主義信仰の基本的前提と相容れないものであると考えている。具体的に言うと、福音主義の信仰は、クリスチャンはキリストにあって、聖霊による神との直接の交わりを経験することができると理解している。これはサクラメント(聖礼典)によって神との関係を深め恵みにあずかるとするカトリックの信仰理解とは異なるとして、パーカーは警戒感をもっている(143頁)。それに対して、アンダーソンとリースはこの種の問題について直接答えていない。彼らは、霊的導きがカトリックを含むキリスト教会全体の伝統に根ざすべきものであることを、当然の前提として論じている。その意味で、福音主義がカトリック等他の伝統の見解をどの程度まで取り入れることができるのかは、今後さらに検討を要する未整理の問題である。
(2)霊的導き手の「霊的資質」の重要性の再認識
フーストンは霊的導き手が備えるべき霊的資質を列挙している。すなわち、成功に無関心であること、忠実さ、正直さ、無意識に自分を意識しないこと、真理の内を歩んでいること、相手をそれぞれ独自で特別な存在として接すること等である。これらの特徴は、キリスト教の歴史の中で、霊的指導者に常に要求されてきた資質と一致する(88~89頁)。
ここで考えなければならない問題は、私たちはこのような霊的導き手をどこに求めたらいいのかということである。なぜなら、牧師であったとしても信徒であったとしても、自己欺瞞から自分を守るためには、導き手の存在は不可欠だからである。その一方で、上に述べたような霊的資質を備えた霊的導き手を見つけることは、容易ではないからである。信徒としては、まず牧師が自分にとっての導き手であろう。しかし、もし牧師がさまざまな理由から導き手としてふさわしくなかったら、どうしたらいいのだろうか。また、牧師の立場にある人の場合はどうだろうか。牧師を霊的に導く人は誰だろうか。
このような問題に取り組むために、ふたつの提案をする。第一は友人関係である。誰かと信頼関係を築き上げるのである。相手は牧師であってもなくてもいい。友情の重要性については、この連載の第4回、「友情―霊性を形成し実践する場、その1」で見たとおりである。第二は自分が導き手になることである。つまり、「自分を霊的に導いてくれる人は誰か」と探し求め、適任の人がいなければ不平や不安を募らせるという態度を捨て、むしろ「自分は誰のための霊的導き手になれるか」と祈り求めることである。この点に関してフーストンはこうアドバイスしている。「もしあなたが人生における霊的導き手がいないと嘆いているなら、自分自身が導き手になるように」(Anderson and Reese、10頁)。フーストンのことばが意図していることは、他者を導くことによって、自分自身も導きを受け豊かにされるということである。
(3)霊的導きの手順に関する多様性の意識
福音派の著作の中で、霊的導きの手順については、今の段階では一定の見解は定まっていない。一方でアンダーソンとリースは、霊的な導きが機械的に進展するものではないことを認めつつも、導きの五つの段階を指摘している。それらは、惹かれること、関係を築くこと、反応を示すこと、説明をすること、霊的力を得ることである(59頁)。その一方で、フーストンやピーターソンは、霊的導きが段階的に発展するものではないと考えている。特にピーターソンは、霊的成長において常に主導権を握っているのは神であって、人間の操作や予測を超えたものであると確信している。「霊性は神のわざであり、人間のわざではない。導き手の役割は、相手の内に神がすでに始めているわざを見出すことである」(The Contemplative Pastor、61頁)。
このような霊的導きの手順に関する見解の違いを、どう理解したらいいのだろうか。これは根本的な違いではなく、視点の違いと見ることができる。アンダーソンとリースは霊的導きのプロセスを説明しているのに対し、ピーターソンは導きにおける神の主導権に主眼を置いている。両者の見解は対立するものではなく、視点の違いであって、互いに補い合うものと見るべきである。
3.霊的導き手の「霊的資質」の重要性
霊的導きについてここまでの考察の中で浮かび上がってきた問題のうちで、特に重要なものが霊的導き手の「霊的資質」の問題である。導き手が備えていなければならない霊的資質の問題は、キリスト教の歴史を通じて、霊的導きが論じられる時には常に重要視されてきた問題である。
(1)ベネディクトと大グレゴリウスによる二冊の古典
導き手の霊的資質の問題を考えるに当たって、まずこの分野の古典であるベネディクトの『規則』と大グレゴリウスの『牧会規定』を参考にする。ベネディクトの『規則』には真にキリストを中心とした修道生活を確立するために必要な諸規則が記されており、6世紀に書かれた。一方、グレゴリウスの『牧会規定』は6世紀末に執筆された「魂の配慮」についての古典である。両者に共通する最も重要な特徴は、それぞれが修道院長すなわち霊的指導者の資質についての記述から論述を始めていることである。
ベネディクトとグレゴリウスが指摘する導き手の霊的資質の問題は、四つの点から整理することができる。第一に、霊的導き手は、人々を霊的に導くために、まず注意深く自己吟味することによって自分自身の霊的(内的)生活に最善の注意を払わなければならない(グレゴリオス、1:4)。第二に、霊的導き手は、ことばだけではなく行いにおいても常に模範でなければならない(ベネディクト、2:12。グレゴリウス、2:2, 3)。第三に、霊的導き手は、人を導くために、人間性に関する深い知恵と洞察力が必要である(ベネディクト、2:31。グレゴリウス、2:10)。第四に、霊的導き手は、相手の個性の違いを見分けて導かなければならない。グレゴリウスは修道士たちを教え戒めるために、人々の個性の違いを約40通りの具体例を挙げている(グレゴリウス、3:1-40。ベネディクト、2:31)。このように、霊的導きはまさに「魂の配慮」であって、「技芸のなかの技芸」(the art of arts)なのである(グレゴリウス、1:1)。
(2).宗教改革、福音主義、そして霊的資質
霊的導き手の霊的資質についてのベネディクトとグレゴリウスの見解は、単に「カトリック」の見解として片付けてしまうことができるのであろうか。そうではない。見失っていたものとして、再評価する必要がある問題である。この点についてマクグラスの指摘は福音主義の霊性のルーツを再発見する上で有益である。「偉大なキリスト教の牧師や指導者たちの『霊的助言の手紙』は、福音主義の過去の歴史における、この種の育成と指導の重要性を思い起こさせてくれる。この貴重な遺産をわれわれはどこかで見失ってしまったようである」(187頁)。
それでは霊的導き手の資質の問題に関して、福音主義のルーツの中心である宗教改革はどのような関心と実践をもっていただろうか。オーグスト・ニーベの古典的研究によると、ルターは霊的指導者として彼自身の魂を配慮(世話)することの大切さを強く意識していたと指摘している。なぜなら、人に対して適切に助言しその魂の世話をしようとする者は、その前に自分自身が助言を受け、魂が世話をされていなければならないからである。ニーベは言う。「魂の医者として他者を助けようと望むなら、その人は自分自身がまず本当の治療をまじめに利用したことがなければならない。したがって、霊的助言者としてルターは、まず彼自身の魂の世話をしなければならなかったのである」(9頁)。
同様の態度はイギリス・ピューリタンにも見られる。17世紀のピューリタン牧師であるリチャード・バクスターは、著書『改革された牧師』(The Reformed Pastor)の中で、牧師が自分自身と会衆をともに監督することによって、牧会者としての義務を果たすように勧めている。バクスターによると、牧師が「自分自身を監督すること」は、「会衆を監督すること」の前提条件である(53頁)。これはベネディクトやグレゴリウスに相通じる態度である。さらにバクスターは、牧師が単に恵みの状態にとどまるだけではなく、神の恵みを身をもって力強くしかも生き生きと表さなければならないと教えている。つまり牧師は、自分が教えていることと行いが矛盾していてはならないのである(61~63頁)。
スポルジョンも『牧会入門』の第一章を「教職者の自己監視」に当てている。職人がいつも道具の手入れをよくしなければなければならないように、教職者も自分の霊的状態に細心の注意を払わなければならない。スポルジョンによると、「主が目的達成のために用いられる方法は、私たちが最上の霊的状態にある時、最上のことを成し遂げる可能性が強いということである」(8頁)。もちろん主は、私たちの劣悪な説教を用いて回心する者を起こされることがあることも事実である。この点をスポルジョンも認めている。しかし、主が絶対的主権者としてそのようなあわれみのわざを行われるとしても、だからと言って私たちが常に劣悪な状態にあっていいということにはならない。スポルジョンは続ける。「もう一度言う。私たちは、最も高度な経験を養い育てなければならない。なぜなら、私たちの仕事が、いや応なしにそれを必要としているからだ。教職者の仕事は、私たちの新たにされた性質の活力に正しく比例してなされるものである。私たちの仕事は、私たちが霊的に良い状態にある時にのみ、申し分なく遂行される」(31頁)。
このように、宗教改革から福音主義に至るまで、「霊的に人を導く者は、まず自分自身霊的に導かれていなければならない」という霊的資質の問題は、常に霊的導きの本質的な問題として理解されていたのである。
4.カルヴァンによる逆照射
これまで霊的導きの重要性について、特に導き手の霊的資質に的をしぼって見てきた。ここで考えておかなければならない問題がある。カルヴァンは『キリスト教綱要』の中で働き人(教職者、霊的導き手)の人格あるいは資質の重要性を否定していると受け取れる発言をしている。私たちが今まで見てきた霊的導き手の霊的資質の重要性の主張に対して、カルヴァンは異議を唱えているのだろうか。カルヴァンの発言はこうである。「聖書において〔旧約の律法のもとにあった〕祭司たちであれ、あるいは預言者たちであれ、またあるいは使徒たちであれ、あるいは使徒の後継者たちであれ、およそ御霊が授けておられる権威と威厳とは、これらの人々の『人格』に与えられているのでは断じてない。ただかれらに委任されている『奉仕のつとめ』に与えられているのである。あるいは、(もっとわかりやすく言うならば)かれらがそれに仕えることを託せられている『御言葉』に与えられているのである」(Ⅳ-⑧-(2))。言い換えると、聖霊の権威は働き人の「人格」にではなく、彼らが仕えている「みことば」にあるということである。
このことばを、霊的導きとの関係、特に導き手の霊的資質の問題との関係で、どう理解したらいいのだろうか。導き手の霊的資質の重要性については、今まで見てきたとおり多くの著作で強調されている。その一方で、カルヴァンはそれとは逆のことを言っているようにも思える。
しかし、両者の間にある一見したところの相違は、見た目以上に大きくないのではないだろうか。むしろ、カルヴァンの視点によって、私たちはキリスト教の歴史に学びつつも、プロテスタント・福音主義としての立場をより鮮明にすることができる。つまり、私たちが霊的導き手の霊的資質の重要性を論じる時、それは導き手の「人徳」や「人望」というような人間的要素ではなく、また霊的指導者という一握りの階級や専門家のことでもなく、神のことばに仕えることを通してキリストに仕えている信仰と霊性の重要性を扱っているのである。それはキリストとみことばを離れた人格や人徳のことではない。導き手自身が日々の歩みの中で経験するすべてのことを、みことばを通して語るキリストによって受けとめ、整えられていくことによって、霊的資質が備わっていくのである。このキリストご自身による霊的導きに預かっている者が、人を霊的に成長させるキリストのわざに加わることができるのである。
おわりに――霊的導きと霊性の形成
ピーターソンは霊的導き手を求め、実際に導きを受けた時の自分自身の経験を次のように述べている。かつてピーターソンは、成熟したクリスチャンは「ただイエスと私のみ」という関係の中にいるものだと思い込んでいた。その一方で徐々にピーターソンの祈りは、「霊的導き手のもとに私を導いてください」というものに焦点がしぼられていったという。やがて導き手としてふさわしいと思われる人物を見出した時、ピーターソンは言いようのない「『気乗りのしない』重い感覚」を味わった。一年後、ピーターソンはこの「重い感覚」とは、彼自身の「高慢さ」から来ていることに気がついた。「自分の信仰生活のあり方は自分で決めたい」、「自分の弱みを人に見せたくない」等々。この高慢さこそが、クリスチャンを霊的孤独に導き入れるものであり、だからこそ教会史上の先人たちは、霊的導き手の必要性を唱えてきたのである。そしてピーターソンはその人物に霊的導き手になってくれることを依頼した(『牧会者の神学』、212~215頁)。
霊的導きにおいては、「一人の罪人がもう一人の罪人と関わっている」という事実を一瞬たりとも忘れてはならない(『牧会者の神学』、205頁)。だからこそ、霊的導き手の霊的資質が求められるのだ。これは、導き手の高潔な人格を過大評価することではなく、まさにみことばと聖霊によって変えられてゆく聖化のわざによる霊性である。
最後に提案二つ。第一に、自分の心の中に霊的導きを避ける「重い感覚」がないか探ってみよう。人と深いところで交わることから逃げていないだろうか。祈りの中で、神の御前で問いただしてみよう。第二に、自分の霊的導きを求めると同時に(求める以上に)、自分が誰の霊的導き手になれるかを祈り求めてみよう。これは「私は○○さんを霊的に導ける」と高慢になることではない。霊的成長は、自分のためではなく人のためであり、教会を建て上げるためだからだ(エペソ4:11-13)。人の霊的成長に関わることによって、私たちは神のわざに加わっているのだ。
主な参考文献
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リチャード・J・フォスター『スピリチュアリティ 成長への道』中島修平訳(日本基督教団出版局、2006年)
アリスター・マクグラス『キリスト教の将来と福音主義』島田福安訳(いのちのことば社、1995年)
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(2007年4月発行 レインボーNo.36掲載)