聖書から見る教会教育 クリスチャンの霊的成長について
第5回「霊的導き―霊性を形成し実践する場、その2」
はじめに
クリスチャンの霊的成長について考える時に、いつも思い出す経験がある。それは私が1997年秋にカナダのリージェントカレッジに留学した頃のことだ。私は霊性(スピリチュアリティ)について学ぼうとしていた。最初に訪ねたのが、ジェームズ・フーストン先生の研究室だった。簡単な自己紹介を終えた後、私は先生のもとで霊性について学びたいと話した。当時の私は、自分自身の中でクリスチャンとして最も本質的な何か霊的なものが欠けていると痛感していたからだ。すると、予想に反して先生は、「君はリージェントに来て、霊性に関する知識を得ようとしているようだ。しかし、霊性についての知識は君を霊的にしない」と語った。私は、「この先生は何を言おうとしているのだろうか」と心底思った。言い換えると、私は、先生が言った「霊性の知識は君を霊的にしない」ということばが何を意味するのかがわからないほど、霊的に盲目だったのだ。
私の霊的な求めは、そこから新たに始まった。私はその時まで、「自分が霊的ではないのは、霊性についての知識が足りないからだ」と思っていた。だから、聖書とキリスト教の伝統がもつ豊かな霊性の遺産について学べば、その学びが自分を霊的なクリスチャンにしてくれると信じきっていた。それに対してフーストン先生は、単に霊性についての知識を増やすことではなく、神の前で自分がどのような者であり、神の前をどのように歩むかという方向に、私を導いてくれた。
この対話から私たちは何を知ることができるだろうか。ここで注目したいことは、私が自分の霊的な渇きに気づいていても、それに対して的外れな方向に進んでいることには自分で気づいていなかったこと、そしてそうした自分自身の姿に気づくために、他の人(フーストン先生)の助言が大きな役割を果たしていたことである。私たちの信仰生活においては、このように他のクリスチャンの助けによって、問題を解決したり信仰が成長してゆくことがよくある。この分野をキリスト教の歴史の中では「霊的導き」(霊的指導、spiritual direction)と呼んでいる。
前回は「霊性を形成し、実践する場」としての「友情」の意義を考えた。今回は「霊的導き」という観点から考察する。最初に、霊的導きが福音派の中でどのように理解されているかについて、次に、霊的導きの目的について、最後に、霊的導きの方法についてである。今まで同様、霊性についてのキリスト教の遺産の中から、霊的導きについて見てゆく 。
1.霊的導きに対する評価――福音派の場合
まず、福音派の教会の中で霊的導きがどのように受け止められてきたかを概観する。四つの点から考えるが、どれも従来の福音派では、霊的導きの積極的意義が十分に理解されていない現状を反映している。
第一に、従来のプロテスタントと現代の福音派においては、霊的導きへの根強い疑念がある 。その主な理由は、神と人間との間にキリスト以外の仲介者を立てることになると考えられること 、あるいは霊的導き手によって相談者が霊的に支配されたり依存してしまう危険性を危惧することなどが挙げられる 。
第二に、宗教改革者たちは、手紙を通して多くの霊的導きと助言を実践してきたが、そのような伝統は見失われてしまい、信仰の成長における導きと助言の占める位置が相対的に低下してしまっている 。
第三に、プロテスタント、特に福音派に見られる個人主義的傾向を挙げることができる。私たちは以前、ベビントンによる福音主義の特徴(回心主義、活動主義、聖書主義、十字架中心主義)を見た。この四つの特徴はどれも、個人主義的色彩が強い。言い換えると、福音主義の信仰は、信仰の交わり的あるいは共同体的側面の重要性について、十分に追求して来なかったと言うことができるのではないだろうか。従って、霊的導きについての関心が低いとしても、それはその意味で当然のことではないだろうか 。
第四に、福音派の教会は、神のことを重視して、信仰の人間的側面を軽視してきた 。言い換えると、生身の人間を扱う術を持たずにいたのではないだろうか。その結果、神との直接の交わりを求める積極的な面がある一方で、自分を欺いたり霊的に孤立することに対して無防備になってしまう危険性に直面している。言い換えるなら、われわれが時として、自分が最も謙遜であると思っている時に、実は最も高慢で自分を欺いている危険性があるという現実に対処する術をもっていないことになる。その意味で、次の洞察は、霊性の形成における導き手の重要性を示す貴重な助言である。「自分を神に捧げようと真剣に望む者は、他の誰かから霊的に指導を受けることの大切さを十分にわきまえなければならない。なぜなら、最も優れ知恵のある者でも自分自身の内なる生活には盲目であり、最も聖く人を霊的に導くのに適している者でも自分自身を導くことはできないからである」 。
以上のように、従来の福音派の教会では、クリスチャンの霊的成長において、霊的導きが果たす役割が十分に評価されていないと言うことができる。このような状況の中で、霊的に枯渇した福音派の人々の中から、カトリック的な神学と霊性に向かう人々が少なからずいる現状を、マクグラスは指摘している。今こそ、福音主義の立場から、霊的導きを再評価する時ではないか。
2.霊的導きの目的
霊的導きについて考えるうえで、まず「霊的導きとは何か」ということを考えなければならない。ある辞典によると、霊的導きとは「聖霊なる神の召命と恵みと力を通して、助言と祈りによって、魂を牧会的に導くこと」であると説明されている 。この記事でも大筋で霊的導きをこのように理解することにする。
次に、霊的導きの目的、すなわち霊的導きは何を目指すのかについて、ふたつの点から考える。
(1)日常生活における神の臨在と働きについての深い目覚め
霊的導きは、導きを受ける人が自分の人生における神の臨在と働きについて目が開かれることをめざしている。この目覚めなくして、霊的な洞察も成長もありえない。この点についてガンサーは、相談者の人生の中に起こっていることを霊的導き手として理解するために、導き手自身が自問する内なる問いを、自身の霊的導きの経験に基づいて記している。「この人の人生の中で何が起こっているのだろう。神はどこにいるのだろう。この人の体験は、クリスチャン全員が体験することと、どのようにつながっているのだろう。聖霊はこの人の人生の中で、どのように働いているのだろう。何がこの人に欠けているのだろう」 。このように霊的導き手は、相談者が自分の人生における神の臨在と働きに気づくために、細心の注意を払う。
人生における神の臨在と働きに目覚めさせるということは、宗教改革者にも見られる態度である。ルターもカルヴァンも多くの霊的助言の手紙を書き、今でもその手紙は残っている。ブノアの指摘によると、カルヴァンの心の温かさは、こうした霊的助言の手紙に存分に表れている。「彼〔カルヴァン〕は相手を教え導く。しかし、その上で彼は相手が自分で神と向き合うようにする。なぜなら、決断はその人自身がしなければならないからだ。このような導きは、すべてのプロテスタントによる導きやカウンセリングの特徴である」 。
以上のように、霊的導きにおいては、導きを受ける人自身が、自分の人生における神の臨在と働きに目が開かれることを第一の目的としている。ユージン・ピーターソンのことばは、霊的導きの目的をよく表している。「第一に志向すべきは神であり、恵みを探し求めることである。罪を探し求めることはそれよりもはるかに容易である」 。
(2)全体性の回復と全人格の癒し
私たちはキリスト者の霊的成長についてのこの学びを始めた時に、霊性とは「福音の全体を生き抜くこと」であり、キリスト者が神を信じて生きること全体であることを見た。言い換えると、霊性とは神学と生活を統合し、信仰生活の全体像を描き出す全体論的な追求である 。
霊性のこの全体論的な性格は、当然霊的導きにも関連してくる。それがここで言う霊的導きのもうひとつの目的、「全体性の回復と全人格の癒し」である。この点はキリスト教の歴史の中で繰り返し強調されてきたことである。つまり、霊的導きは、相手の全人格を配慮するための技巧(芸術、術、art)であるということである。この点について大グレゴリウスは、「魂を導くことは、技巧の中の技巧だ」と語っている。また、トマス・マートンも、霊的導き手は、相手の全人格に関心をもつと述べている 。
このように、霊的導きは、相談者が信仰者としての全体性の回復と全人格の癒しを経験することをめざしている。これは人生の意味と価値を見失った現代人にとって必要不可欠なものである。
3.霊的導きの方法(モード)
霊的導きの目的を見た後で、次にその方法について考える。三つにまとめる。
(1)全身全霊をもってその場に臨むこと
ここではガンサーの見解を参考にする。ガンサーによると、霊的導きの場で導き手が真の意味でその場に臨むということは、相手の話を注意深く聴くことによる。それほど相手の話を聴くことは、相手の霊的成長にとって本質的なことなのである。その意味でガンサーは、相手の話に耳を傾けることを、「聖なる傾聴」(holy listening)と呼ぶ 。ここでガンサーが、全身全霊をもってその場に臨むこと、注意深く相手の話に耳を傾けること、すなわち「聖なる傾聴」を実践することについて語ったことばを紹介する。
「相手を愛し受け入れることを通して、霊的導き手は神の愛を模範とし、映し出すことができる。この神の愛こそ、自分が価値ある存在であることを見失った相談者が飢え乾いているものである」。
「霊的導き手は待つことと聴くことができる存在だ。すなわち、死を目前にした人とともに死の事実を受け入れる。見捨てられる経験をした人とともに待ち望み、悲しみとは急いで忘れ去らなければならないものではなく、それを生き抜かなければならないものであることを知っている。暴力、虐待、無視等の仕打ちを含むあらゆる犠牲者に耳を傾け、その場に臨む」。
「ある意味で、話を聴いてもらえないということは、存在しないということなのだ」。
「私は公平で見極める目をもちながら、しかも相手をさばかないようにしなければならない。何より相手を敬わなければならない。なぜなら、私は相手の話に耳を傾ける時、とても貴くて大切なものを委ねられているのだから」 。
霊的導き手が相手の話を聴くということは、その人の心の最も深いところに触れるように招かれているということなのだ。相手の心に触れるだけではなく、その旅路をともに歩むことが求められている。本来、その人の心の最も深いところに触れるということは、神のみが行うことのできるわざだ。それを霊的導き手は神に代わって、いや神とともに行うように招かれている。その意味で相手の話に耳を傾けるということは、「聖なる傾聴」なのである。
(2)友情
霊的導きにおける導き手と相談者の関係は、決して力関係や上下関係ではない。両者の関係を表す最もふさわしいことばは、友情である。クリスチャンの霊的成長における友情の大切さは、前回見たとおりだ。その時にも言及したアルレッドによると、真の友情の特徴は、「対等」であることだ。「何という幸せ、何という安心、何という喜び。あなたが対等な立場で話すことのできるもうひとりの人がいるということは。あなたが自分の失敗を告白する時に、何の恐れも感じる必要のないもうひとりの人がいるということは。あなたが霊的な生活においてどれくらい進歩したかを、恥ずかしがることなく知らせることができるもうひとりの人がいるということは。あなたが心の秘密のすべてを打ち明けることができ、あなたが計画するすべてのことを話すことのできるもうひとりの人がいるということは」 。
プロテスタントの中にある霊的導きに関する懸念、すなわち導き手が相談者を支配したり強制するという心配は、友情という姿勢によって克服することができる。霊的導きにおける対等な友情という姿勢の大切さを考えるとき、冒頭で触れたフーストン先生がかつて語ったことばを思い出す。ある時先生はこう言った。「私が多くの学生の相談に乗るのを見て、時々、『あなたは多くの学生の相談に乗り、学生の心が癒されることに関わっているが、あなた自身はだれに相談しているのですか』と尋ねる人がいる。そういう質問をする人は、学生の話を聴くことによって、私自身がどれだけ彼らによって癒されているかを知らないのだ」。ここでフーストン先生が、ここ数年はやっている「癒しブーム」の話をしているのではないことは明らかだ。人の心の癒しに関わることによって自分自身も癒される、という霊的な現実を語っているのだ。霊的導きの観点から考えると、導き手と相談者は、一方的な上下関係や支配関係にあるのではなく、お互いに癒し癒される、相互的な友情を実践しているのだ。
(3)教理的要素
霊的導きの方法について、忘れてはならないもうひとつの重要な側面がある。それは教理的要素である。ここまで見てきたところでは、導き手と相談者の交わりの質について焦点が当てられてきた。ここでは「霊的導きにおいて分かち合われる内容」の重要性について考える。
「霊的導きにおいて分かち合われる内容」という問題は、最近の霊的導きに関する議論の中でほとんど前面に出ることはない。しかし、プロテスタントおよび福音主義の伝統から霊的導きを考えるとき、聖書および教理の重要性は、見落とすことのできない大切な要素である。
キリスト教の歴史の中で聖書および教理を重んじた伝統に、ピューリタンを挙げることができる。J. I. パッカーの研究によると、ピューリタンの確信するところは、「神を敬うことは聖書を敬うことであり、神に仕えることは聖書に従うこと」であった 。つまりピューリタンにとって神を知り、神を礼拝し、神に従うことは、聖書とそこに記された真理を知ることを通して実現するものであった。その意味で聖書は霊性の土台である。
この確信を実践したのが、ピューリタンの牧師リチャード・バクスターであった。バクスターは彼のキッダーミンスター教区のすべての家庭を一年に一度訪問した。その際に彼は、ウエストミンスター小教理問答書を使って教理教育を行ったと言われている 。バクスターは言う。「私たちは月曜日と火曜日の朝から夜に至るまで、その働きにおいて、一週間に約15から16の家族を訪ねた。そのようにして、800を上回る家族のいる教区を一年でくまなく回った」 。
バクスターの実践は、霊的導きという枠組みで捉えられるよりも、むしろ牧会および教育という観点から位置づけられるべきものかもしれない。しかし、クリスチャンの信仰の成長を求める上で、聖書と教理の重要性を確信したピューリタン牧師バクスターの足跡は、霊的導きが単なる交わりの深まりだけを求めるものではなく(それが本質的であることは間違いないが)、そこで語り分かち合われる内容の重要性をも問いかけるものではないだろうか。
おわりに
フランス文学と哲学、パスカル、デカルト、カルヴァン、教育学、バッハ、クリスチャン、障害児教育、父との葛藤、講解説教、そして霊性……。突然唐突だが、ここに羅列したものは、私が学生時代以来関心をもち取り組んできたものだ。趣味から職業まで含まれている。改めて列挙してみると、雑多な感じは否めない。私がクリスチャンとして霊的で本質的なものが足りないと感じた背後には、自分の人生が全体として何をめざし、どのような意味をもっているのかを見失っていたことも原因としてあったのかもしれない。
私の人生に神が確かに臨在し、私の人生がバラバラなものでなくキリストにあってすべてのことが意味をもっていることに私の目を向けてくれたのは、もうひとりの恩師ユージン・ピーターソンだった。私はピーターソンを理想化しているのではない。霊的導きを実践しているひとりとして紹介しただけだ。ここで私が書いたことは、私の学びと経験に照らして、確かな事実である。
霊性の形成と霊的導きの関係についてのより詳しい考察は、以下を参照のこと。Akira Shinohara, “Spiritual Formation and Mentoring: An Approach from the Christian Tradition of Spiritual Direction,” Christian Education Journal 6 NS, no.2 (Fall 2002), 105-118.
アリスター・マクグラス『キリスト教の将来と福音主義』島田福安訳(いのちのことば社、1995年)、187頁。
Howard L. Rice, Reformed Spirituality: An Introduction for Believers (Louisville, Kentucky: Westminster John Knox, 1991), 127.
David Parker, “Evangelical Spirituality Reviewed,” Evangelical Quarterly 63, no. 2 (1991), 146.
マクグラス、187頁。
この議論に関しては、以下を参照のこと。篠原明「クリスチャンの霊的成長について第一回、『福音主義と霊性』」『レインボーニュース』第31号(レインボー・ミニストリーズ、2004年)、13~15頁。
マクグラス、183頁。
“Spiritual direction” in The Westminster dictionary of Christian spirituality, ed. Gordon S. Wakefield (Philadelphia: The Westminster Press, 1983), 114.
“Spiritual direction” in The Westminster dictionary of Christian spirituality, 114.
Margaret Guenther, Holy Listening: The Art of Spiritual Direction (Cambridge: Cowley, 1992), 43.
Jean-Daniel Benoît, “Calvin the Letter-Writer,” in John Calvin, ed. G. E. Duffield (Grand Rapids, Eerdmans, 1966), 94.
- H. ピーターソン『牧会者の神学――祈り・聖書理解・霊的導き』越川弘英訳(日本基督教団出版局、1997年)、205頁。
篠原、14~15頁。
Gregory the Great, Pastoral Care, trans. Henry Davis (New York, Newman, 1950), 1:1; Thomas Merton, Spiritual Direction and Meditation (Collegeville: Liturgical, 1960), 14;
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Guenther, 21, 96, 143, 145.
Aelred of Rievaulx, Spiritual Friendship, trans. Mary Eugenia Laker (Kalamazoo: Cistercian, 1974), 2:11.
- I. Packer, A Quest for Godliness: The Puritan Vision of the Christian Life (Wheaton: Crossway, 1990), 98.
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Richard Baxter, The Reformed Pastor (Edinburgh: Banner of Trust, 1974), 43.
(2006年10月発行 レインボーNo.35掲載)