聖書からみる教会教育 クリスチャンの霊的成長について

第1回「福音主義と霊性」

 

最近、クリスチャンの信仰の成長を表すために「スピリチュアリティー(霊性)」という言葉が使われるようになってきた。ここ数年一種の流行のように扱われることもあったが、本来クリスチャンの信仰生活や霊的成長は流行として扱われるようなものではないはずだ。その一方で、霊性という言葉自体に違和感を覚える人々もいるようである。なぜ今新たに霊性という言葉でクリスチャン信仰の霊的成長が再検討されているのだろうか。

 クリスチャンの霊的成長について考える第1回目として、福音主義の信仰理解の特徴について、そして霊性とは何かという定義の問題について考える。

 

1.福音主義の特徴

 まず、福音主義の信仰の特徴はどのようなものなのだろうか。たとえば、イギリスの教会史家デウィド・ベビントンは福音主義の特徴を、回心主義(生き方が変えられなければならないという確信)、活動主義(活動を通して行なう福音の証し)、聖書主義(霊感された神の言葉としての聖書への献身)、十字架中心主義(十字架におけるキリストの贖罪の強調)の4点にまとめている(Bebbington, 2-17)。この4つはどれもクリスチャンの信仰にとっては不可欠であり、重要な要素であることは疑いない。その一方で、こうした福音主義の特徴に含まれていないが、クリスチャンの信仰生活にとって重要な別の側面もあるのではないかという疑問がわいてくる。この疑問を考えることこそ、アリスター・マクグラスの「アメリカの福音主義は東西4,500キロにわたって広がったが、厚さはわずか15センチだ」という指摘に答えることになるのではないだろうか(McGrath 1994, 9)。

たとえばカルヴァンによる「キリスト者の生活」に関する教えを見るとき、信仰生活において他の側面の重要性が浮かび上がってくる。カルヴァンはキリスト者の生活を、「神の聖なるごとく、われわれも聖でなければならない」こと、「自己否定」、「十字架を忍び耐えること」、「来たるべき生への瞑想」、「現在の生と、その手段とを、どのように用いなければならないか」という点から論じている(カルヴァン、III-1-vi~x)。

このようなカルヴァンの視点を通してベビントンによる福音主義の特徴を評価すると、どのような点が明らかになるだろうか。ひとつには、従来の福音主義の信仰は、「どのようにしたら救いを自らのものにすることができるか」という救いの根本問題を、十字架と回心にしぼって理解してきたということである。言い換えると、回心主義に代表される「救いを得る」という点は注目されていたが、それに続く「救いを生きる」という側面は十分に追求されていなかったのではないか。まさに「救いを生きる」というキリスト者の生活の全体にかかわることが、霊性の問題ではないだろうか。あるいは、霊性への関心は回心後の信仰生活のリアリティがどこにあるのかを求める渇きの表れであると言うことができるのではないだろうか。

福音主義の特徴について、さらに神学的土台という観点から考える必要がある。ジョン・ストットは福音主義の特徴を三位一体の神に対する信仰から理解するべきだと論じている。ストットは、従来福音主義の特徴として指摘されていた伝道や回心の経験等を、重要ではあるが福音主義信仰を特徴づける第一義的なものではないと指摘する。ストットによると第一義的なものとは、三位一体の神に対する信仰である。すなわち、聖書を通して表された<父なる神>の権威、十字架によって表された<イエス・キリスト>の威光、さまざまな働きを通して表される<聖霊>の支配である(Stott, 24-25)。このようにストットは、三位一体の神という理解に基づく信仰が福音主義の本質であると主張している。

以上のような福音主義の特徴は、霊性の問題を考える上で2つの視点を提示している。第一に、キリスト者の信仰生活の全体像を描く必要性があること。第二に、単なる経験ではなく、聖書と神学(特に三位一体の神理解)というしっかりした土台に基づいて霊性を理解する必要があるということである。

 

2.霊性とは何か――定義の問題

 それでは、そもそも「霊性」とは何なのだろうか。霊性について考える上で、まず「霊性とは何か」を定義することは不可欠な作業である。霊性に関して、これまで多くの定義が試みられてきた。たとえばアリスター・マクグラスは、「キリスト教の霊性は、キリスト者としての充足し偽りのない生き方の追求であり、キリスト教の土台となる信仰内容とそれに基づく生活のすべての経験を統合するものである」と規定している(McGrath 1999, 2)。この定義によると、霊性とはキリスト教信仰の内容(神学・教理)と生活(実践)を統合的に把握しようとする試みとして理解される。その意味で、霊性とは「教理を生きること」である(Gordon, 3)。

 その一方で、「教理を生きる」という理解は、霊性に関して定義とは別のアプローチに道を開くものである。それは、霊性は定義や分析を超えたものであり、実際に生きた経験であるとする立場である。たとえばユージン・ピーターソンは霊性についてこう語る。「キリスト教の霊性とは、福音の全体を生き抜くことである。すなわち、霊性はあなたの生活のすべての要素――子ども、配偶者、仕事、天気、財産、人間関係――を含み、そのすべてを信仰の行為として経験することである。神は私たちの生活のすべてのものを望んでおられる」(Peterson, 4)。このように霊性とは、キリスト者が神を信じて生きる現実の総体である。

 以上の論述から、キリスト教における霊性とは、神学と生活を統合し全体論的に捉える視点と実践、言い換えると、分析ではなく統合へと向かうもの、すなわちキリスト教信仰の全体像を描きそれを生きる試みであると理解することができる。

 次回は、キリスト教の霊性の神学的土台について考えてみたい。

 

主な参考文献

ジョン・カルヴァン『キリスト教綱要』III/1(新教出版社、1963年)

David Bebbington, Evangelicalism in modern Britain: A history from the 1730s to the 1980s (Grand Rapids, Michigan: Baker, 1989).

James M. Gordon, Evangelical Spirituality: From Wesleys to John Stott (London: SPCK, 1991).

Alister E. McGrath, Spirituality in an age of change: Rediscovering the spirit of the Reformers (Grand Rapids, Michigan: Zondervan, 1994).

__________. Christian Spirituality: An Introduction (Oxford: Blackwell, 1999).

Eugene H. Peterson, The Contemplative Pastor: Returning to the Art of Spiritual Direction (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 1989).

John Stott, Evangelical Truth: A Personal Plea for Unity, Integrity & Faithfulness (Downers Grove, Illinois: IVP, 1999).

(2004年5月発行 レインボーNo.31掲載)

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