SNSの時代へ
近年、高校生は圧倒的な情報量の中で生きています。言わずと知れず、彼らは常にスマートフォンを手にしているからです。私が中高生の時は、テレビを見過ぎることや、ゲームにハマりすぎる事への注意喚起がされた時代でした。これらに没頭し過ぎて、成績が落ちていった友人が何人もいました。しかし、テレビやゲームはほとんど家庭のリビングにあったためか、家族が警告出来る範囲にあり、その危険性が可視化されていたと思います。
日本の若者の生活に大きな変化をもたらしたのは、間違いなくSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)であると言えます。10年くらい前は、パソコンで閲覧・投稿している人の方が多かったのですが、パケットし放題が当たり前になり、スマートフォンの普及と共に、非常に個人的なコミュニケーションツールとなりました。SNSの普及は、高校生のIT事情をすべて物語っています。Twitter、Facebook、LINEは今や高校生の生活の一部です。いや、彼らはこれらの中で生きていると言った方が正しいかもしれません。前述のテレビやテレビゲームとは違って、自分に与えられているスマートフォンの小さな画面は、いつでも学校の友だちと繋がっています。LINEなどのやり取りは途切れることがありません。またFacebookなどを公開設定にしている人は、世界中に発信していると言って良いでしょう。本人が良いフィード(投稿)だと思っていても、そうは思わない人がいたり、何気ない写真の公開やタグ付けが問題になったりしています。Twitterで不適切な発言をする高校生に注意することもあります。残念なことですが、SNSの投稿によって気まずい仲になってしまったり、トラブルに発展していくケースが非常に多いのです。人と繋がることが出来るITというツールは、逆効果を生み出しているという現実があります。普段高校
生と接していると、このSNSの問題がいつも付きまといます。使い方や目的もそれぞれで一概に括れない面があるのですが、その問題に関しては共通点があります。

SNSにおける危険性
デジタルネイティブという言葉を聞いたことがあるでしょうか。人によって定義が異なったりしますが、物心ついた時からインターネットやパソコンのある環境で育ってきた世代です。特に今は若者の携帯電話の所有率が非常に高いです。10代だけの統計であれば、所有率80%を超えているそうです。驚くのは、その下の世代です。日本の小学生の所有率は既に3割を超えていると言うのです。実は我が家でも、最近小学生の長男に(簡易的な)携帯を持たせました。使い方を何も教えていないのに、渡したその日に「けいたいありがとう」とメールが送られてきました。凄い時代になりましたが、行く末は心配です。というのも、携帯やスマートフォンに頼っている高校生は、確実にコミュニケーション能力が落ちています。文章をLINEで送ったり、微妙なニュアンスをスタンプで表現したりするのは得意です。それが日常です。けれども、生身のコミュニケーションの力は明らかに欠落しています。Hi-b.a.の集会をしていても、初めて参加した高校生で自分の名前を言えない子が多いのです。当たり前の挨拶が出来ません。相手の目を見て、心に思ったことを口で話す。そして自分の耳で相手の意志を聞く。この作業の反復が圧倒的に足りていません。スマートフォンで相手の顔が見えない状態でのコミュニケーションは、人格形成にも大きな影響を与えているでしょう。私は、大事なことはメールやSNSではなく、直接会って話したいと思います。しかし、傾向として彼らはそうではありません。受験の合格通知などはいち早くSNSで報告します。共に祈っているので、結果を知れるのは嬉しいことです。けれども、まずFacebookで知ってから、本人に会う事がほとんどです。周りもその投稿を見ているという前提があり、「FB(フェイスブック)でUPしたのでもう知っていると思いますけど〜」と奇妙な前置きがあって、報告となります。
また、高校生は知らない人から友だちリクエストが来た際、共通の友だちがいるという情報だけを理由に、あっさり承認してしまいます。画面の向こう側は、果たして本人かどうかはわかりません。いつでもトラブルに巻き込まれる準備ができています。また、そのような経緯でアカウントを乗っ取られると、プロフィールや写真など、大量の個人情報を抜き取られてしまいます。つまり、被害者になるだけならまだしも、加害者になってしまう可能性も否定出来ないのです。
それだけではありません。最近では、教会の中高科などでもLINEのトラブルが絶えません。「既読になったのに」とか、「未読スルーしている」とかで、揉め事が起き、気まずさから教会を離れていってしまうケースもあるのです。

SNSの有用性
もちろん、問題だけではありません。若い世代は飲み込みが早いもので、クリスチャンの高校生たちは、うまくSNSを活用しています。Facebookは元々アメリカから始まったものなので、自分の「宗教」をプロフィールに書き込むことが出来ます。言わなくても、自分がクリスチャンであることが伝わります。そして伝道集会などを彼らに任せると、よくこのFacebookを用いています。Hi-b.a.のグループにイベントの招待を呼びかけ、誰が来るのか、どんな内容の集会なのかを少しずつ公開したりして動員につなげています。集会後も、写真などが公開されると、参加出来なかった子は様子が分かって面白いようです。また、Twitterは140文字という制限がありますが、このリツイート(拡散機能)を使って様々な案内をしている高校生も見かけます。もちろん、チラシを渡すという方法もあるのですが、無くされたとしても、時間や場所などの情報はタイムラインに残ります(紙媒体よりも画面の方を信頼するという世代でもあります)。日常では、このTwitterを使って教えられた聖書のみことばをつぶやいている高校生もいて、お互いに刺激し合っています。
またキャンプの後も、チャンスです。Facebookで楽しそうな様子の写真を投稿すると、そこから話しが発展し、ノンクリスチャンの友だちも興味をもってくれるようです。他にもたくさん活用法があると思いますが、私たちスタッフよりも、高校生の方が使い方に慣れているので、彼らはバラエティに富んだ発想が尽きません。当然、危うい事もなくはないのですが、今や高校生とSNSは切り離せない関係にあるので、全く福音を聞いたことのない高校生に伝えるためには、軽視出来ないツールであると思っています。

聖書的なSNSの使い方とその模索
高校生たちに聞いてみた事があります。「一日にどれくらいスマートフォンを使っているか?」という質問です。少ない高校生で2〜3時間。大体5〜6時間。一番使っている高校生は12時間との返答でした。検索など勉強に使う時間も含まれているのでしょうが、これには驚きました。スマートフォンで何をするかと言えば、多くはLINEなどのSNSであり、他愛のない会話です。けれども、世の中の情報や聖書的ではない話題も多く交錯しているのです。家族にも知られることのない、小さな画面の中でです。
高校生はSNSで自分のことを公開したいし、何気ないことでも発信して誰かに知ってほしいのです。そして、自分を理解してほしいのでしょう。しかしSNSは異端や新興宗教、政治的に若者を利用するツールとしても使われているので、わたしたちは、たとえうるさがられても正しい使い方を導き続ける必要があります。即スマートフォンを取り上げたり、SNSを禁止したりすることは簡単でしょう。しかし、大人側があまりSNSの実態や内容を知らずに勝手なイメージで「よくないからやめなさい」と言っても何の解決にもなりません。一方的に意見を押し付けても、一旦は言うことを聞くでしょうが、反動でますますのめり込んでしまう危険もあります。納得できない方法で引き離すのは逆効果です。むしろ、親御さんがSNSの仕組みを理解し、携帯の使い方を家庭でもよく話し合ってください、とお願いしたいのです。使う時間を決めるとか、家ではリビングで、などなど。各ご家庭で工夫出来る余地があると思います。
聖書には直接SNSの使い方が示されていません。しかし、私は自分が扱うときには思い出すみことばがあります。「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」(Ⅰコリント
10:23〜24)
すべての高校生に、SNSを使う一日の始まりに思い出して欲しいみことばです。自分のためではなく、他人の利益を心がけ、どんな投稿にも一呼吸おいてほしいですね。また、私は高校生にSNSの指導をする際、次のみことばも引用します。「あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って,顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。」(Ⅱヨハネ1:12)
ヨハネの手紙は第2も第3も文末はこのような文章で締めくくられます。紙と墨で自分の思いを伝達するのは、この時代の最先端だったことでしょう。ヨハネはこの「手紙」という最先端技術を使ってはいますが、最終的には会って話したい、と語っているのです。便利なコミュニケーション方法を使う。けれども、そこに頼りきらず、顔と顔を合わせて関わる事を求めていたのです。現代のSNSの使い方についても、この聖句から教えられるのではないでしょうか。
私は、SNSは「包丁のようなもの」であると思っています。正しい使い方をすれば、美味しい料理を振る舞ってたくさんの人を喜ばすことが出来ます。しかし、使い方を間違え、その切っ先を自分の感情と共に他の人に向けたとき、それは人命を脅かすことも充分可能なのです。今後は、もっと新しいSNSが登場し、高校生がその中で生きていくことでしょう。しかし、どんな道具にも振り回されることなく、正しく扱う術を身に付けていけるように、願ってやみません。

(2015年2月)

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