「では、暗唱聖句ができるお友達は前に出てきてください!!」の声に、何人もの子どもたちが手を挙げ、指名された3人が前に出て、150人のお友達を前にみことばをリズムよく暗唱していた。韓国の大型教会の5歳児クラスのいつもの光景である。
5歳児のクラスには150名を超える子どもたちがいた。テキストが入った教会で配られるバックを持って、自分のグループ(小グループ制になっていて、約10人に一人ずつ先生がつく)の場所に座る。幼稚園の講堂のような教室には低めの舞台があり、そこで司会のお姉さんたちが、フルバンドの奏楽の中で、まるでテレビ番組の歌のお姉さんのようにクラスを進めていく。それは小さなショーだ。5歳児のためだけにいる伝道師(役割としては牧師。このクラスの運営と霊的責任を負い、みことばを語っている)もいる。毎年行われる教会あげての大伝道週間にはこのクラスだけの伝道会もあり、子どもたちが親や友達を誘ってくるらしい。とにかく、教会学校の幼稚科さん、というレベルではない。その様子を少し紹介したい。
1.賛美
少し早めに講堂に入ると子どもたちはまだ来ておらず、先生たちが準備をしていた。司会をする歌のお姉さんのような人たちが真剣に踊りと歌を練習していた。子どもたちが楽しく賛美をするためにはどうしたらよいかと話しつつ、奏楽のバンドメンバーと一緒に何度も何度も同じところを繰り返し、相談しながら熱心に練習していた。その甲斐あって、子どもたちは一生懸命踊ったり、跳ねたり、笑いながら時に賛美を楽しんでいる。日本ではどうだろうか。幼稚科の子どもたちが楽しんで賛美をするために踊りや賛美を工夫しているだろうか。そのために時間を割いて練習をしているだろうか。新しい賛美を研究しているだろうか。オリジナルで何かをしようとしているだろうか。子どもたちにもっと良い賛美を提供しようと努力をしているだろうか?最初からあきらめてはいないだろうか。
2.暗唱聖句
小さな子どもたちが、一生懸命暗唱聖句をしてくる。驚くほどにちゃんと覚えている。舞台に出てちゃんと言えた子どもの誇らしげな顔がとても印象的だった。教会学校の先生の子どもはがんばって創世記の課題を覚えているらしく、10節以上におよぶ箇所をテンポよく暗唱してくれた。5歳児は大人よりすごいかもしれない。まだ小さいから無理、と考えるのは間違っていることを彼らは教えてくれた。5歳児は5歳児なりの暗唱聖句ができるし、聖書の学びだってできる。お祈りだってできる。しかし、大人がまだ無理、ここまでしかできないだろう、と子どもたちの能力を認めないでレベルを下げてしまう。子どもたちは大人が思っている以上にできるし、もっと可能性を認めて高いところに目標を設定しても良いのではないか、と考えさせられる。幼いころに蓄えたみことばは必ず将来芽を出すと信じて。
3.メッセージ
5歳児のためだけに専門の伝道師がいるのだからできることは違うのかもしれないが、メッセージがすばらしかった。スクリーンに話のシーンにふさわしい絵が映し出され、それがタイミングよく変わっていく。聞けば、この伝道師は火曜日か水曜日までにメッセージをイラストを作る人に渡し、金曜日にはチェックし、土曜日には練習をして内容を全部頭の中に入れて、原稿なしでメッセージをするという。1つのメッセージを仕上げるために、多くの努力と練習とスタッフの方々との打ち合わせをしている。イラストの一つ一つをチェックし、その出すタイミングを練習し、自分自身のメッセージを頭の中に叩き込む。伝道師は、子どもの目を見て話さないと集中力が途切れるから、原稿は見ないようにしっかりと覚える、といっていた。いつだって子ども目線なのだ。そうやって子どもたちにメッセージを届けている。子どもの集中力の短さをしっかりと認識し、どうしたら子どもたちが神様のみことばを聞くことができるかを考え、それを実践している。子どもたちはメッセージに釘付けだ。
4.伝道
この大型教会では年に一回、教会あげての大伝道週間がある。それぞれの教会学校のクラスもそれにもれることなく、伝道を励ます。この小さな子どもたちのクラスも2500人入る大きな礼拝堂で伝道会をする。先生方はごくごく当たり前の事として子どもたちに伝道を励ます。イエス様をご両親はもちろん、お友達にも誰にでも紹介するようにと教える。そのために一生懸命お祈りすることがとても大切なこともきちんと教える。子どもたちは本当に素直にそれを受け止めて、もらった紙に誘いたい人の名前を書いて祈っている。押し付けがましくなく、子どもたちが自発的にできるように上手に励ましている。教会学校に生徒を増やすのは先生たちの仕事、と思っているところはないだろうか。子どもにだって伝道はできる。子どもたちだって大切な神様の器であり、働き人なのだ。
私たちはもしかしたら、子どもたちから多くを奪っているのではないかと思った。まだ小さいからこれは無理、あれは無理、もう少し大きくなったら・・・、と勝手に思い、子どもたちの可能性を摘み取ってしまってはいないだろうかと問われた。子どもたちだってすばらしい礼拝ができる。みことばを真剣に聞き、覚えることができる。お祈りもできるし伝道もできる。神様を愛することもできるし、イエスさまの十字架と復活を信じることが彼らなりにできる。まずは、私たちが真剣になるところからだ。子どもたちが思いっきり神様を喜べる賛美を準備し、子どもたちの集中力を考えたメッセージを準備する。いきなりこの教会のようにはできないかもしれないが、できるのにしようとしてこなかったこと、やったほうがいいとわかっているのに最初からあきらめてきたことを、全能の主に祈り願い、聖霊さまの助けをいただいてしていくことからスタートしたらよいのではないか。
夢を見よう。子どもたちが神様を喜び楽しんで礼拝している姿、子どもたちが真剣に祈っている姿、子どもたちがみことばに聞き入り暗唱する姿、子どもたちがご両親やお友達にイエス様を紹介している姿。皆さんは本当はどんな教会学校をしたいと思っていますか?それを夢で終わらせず、あきらめず、全能の神様に期待して、神様と一緒にやってみませんか。自分ひとりでは何もできないし、何も変わらないかもしれない。でも、あなたが変わらなかったら、あなたが祈らなかったら、本当に何もできないし何も変わらない。小さな私たちの本気の祈り「私を用いてください」の祈りが子どもたちの将来を変えることになる、そんな夢をみませんか?
(2013年2月発行No.43掲載)