1.牧師の家庭に生まれて思うこと
今でこそ私はクリスチャンであると言っているが、だからと言ってすんなりと信仰を持ったわけではない。小学、中学校の時には、その土地柄、学校では「牧師、教会の子」と言うことでいじめられたことがしばしばあった。教会に住んでいるだけでいやであった。しかもその教会では、礼拝では美辞麗句をもって祈る人たちが影では人の悪口を言い、牧師の批判をしている姿に、どうしてそんな人と同じ信仰を持ち、いじめられる環境の中に進んで飛び込もうと思えるだろうか。子供の心に、「大きくなったら絶対に牧師にはならない」、「クリスチャンは偽善者だ」とかなり確定的に思っていた。
クリスチャンホームに育つと、他の宗教との接点を極端に狭めさせられる。私の例ではあるが、町内会の子供会や町のお祭りがあればお神輿を担いだり、子供にはお菓子が振舞われたりしているものだが、牧師の家庭ともなるとその様な場所に行ったり参加したりするのは、親からは喜ばれはしない。喜ばれはしないから、自然と足が遠のく。しかし、友人たちが楽しくやっている姿に、どうして自分はあそこに行ってはいけないのか、その自分を納得させる理由が無いので、親に言われるまま距離を置いていたことが、そのまま学校での友人関係と比例したりする。
自分たちの信仰が唯一のもの、それは大人の理解、親の考えではあって、子ども心にはそのことがただ親に言われるままに従わざるを得ない形で考えを整理させられていると、少年から青年期にかけての他の宗教との違い、倫理観、道徳観に迷いが生じていく。しかし、その迷いがあることを親には話せず、当然教会の人々にも「牧師の子どもだからそんな事はとっくに分かっているのでは」と言う視線を感じると、深く話す事もできないので、心がくすぶったままを過ごしてしまう。教会では決して聞く事のできない知的な進化論に対する説明を打ち負かせるほどに、知的な根拠を持って聖書を説き明かしてくれる人も、親を含めて存在しないまま育てば、何を信じたらよいのかを自分に納得させる事が出来なくなっていく。そんな経験は私だけではなく、今もクリスチャンホームに育った青年の方の中にもおられるのでは無いだろうか。
2.どうして信仰を持つに至ったのか
当時、母教会(自分の両親の奉仕している教会)はカリスマグループに触発された者たちが、軽々に牧師批判、教会批判を起こしており、「この教会には愛が無い、信仰が足りない」と声高に叫んでいた時でもあった。その様な人々の目に両親は晒され、牧師としてふさわしい取り扱いもされないと言う嵐の中で、「信仰歴がそのまま信仰深さとはならないこと」、「キリスト教用語を使用していても、だから幸いな信仰者であるとは限らない」、「聖霊に満たされているというならどうしてそこに御霊の実である愛が生まれていかないのか」などと考えさせられた。それゆえに、礼拝で我が物顔に振舞う信徒たちの姿を見ていて、信仰を持つことには減滅を感じ、信仰を遺棄してしまおうとも思った。そんな私がどうして信仰をもったのだろうか。信仰を持って今に至っているのは、決して自分の自由意志によって勝ち得たものだとは思っていない。もちろん、盲目的に信仰の決断をしたわけではなく、それなりにあれこれ思い詰めた末の信仰決心であったことは確かである。
自分として、信仰の確信をはっきりさせることができたのは、松原湖での高校キャンプに参加しての期間をそれとしている。もちろん、洗礼を受けてから初めて信仰の確信を持った。教会生活に疲れた少年献児はしばらく出かけるのをやめていた松原湖BCの高校生キャンプに出かけてみた。キャンプで同世代の者たちと一緒に神様からの取り扱いを受け、信仰を持つことへの確信をもてたのは言わずもがなである。自分ひとりで悩んで苦しんではいるけれど、しかも牧師の子ゆえに自分の未来も世襲制が求められているような空気の中、自分は自分だと、自分が何者であるかを確認し、その自分を必要としている方がおられることへの気付きに導かれたわけ。同時に祈られていた自分であるからこそだとも信じている。しばしば家庭礼拝で両親や祖父母が口に出して祈っていた、その祈りを聞いているうちに、祈られている自分であることを常に意識させられていたこともその理由の一つだ。キャンプと言う経験の中で仲間、友人を持つこと、信仰の萌芽、献身に対する淡い憧憬を与えられたことが、依然嵐の中のような教会に帰っていっても、以前のように落ち込む事も無かった。それと、自分の信仰に対する疑問に、明確に「これはこれ、あれはあれ」だと応えてくれる先輩の存在による。その答えが全て正しかったわけでは無い。そうではなく、その人の経験に基づいて、自分の悩んでいる事に丁寧に答えてくれている、その暖かさが自分にはうれしかった。それによって、教会に自分もその人を通じて居場所を持つことができるようになった。その様な先輩は、教会を超え、キャンプでの奉仕者の先輩とか、キャンプで働いている牧師たちとの個人的な関係の中で与えられてきた愛のある交わりが自分を励ましてくれた。
以上がささやかな私の経験である。
参考
クリスチャンホームの子どもの特徴
a.
彼らは聖書の話しを実によく知っている。へたをすると教師よりも教会生活が長い子供もいるくらいであるからだが、教理について考えるとそれほど理解しているとは言い兼ねる。が、年長になると自分では何でも分かっていると思いこんでいる者も少なくない。
b.
教会内で彼らを叱る者がほとんどいないこともあるが、大人と沢山接している為に大人を怖がらない。それは教会の人たちがなべて優しいこともあるが、それゆえにけじめなくうるさくする者も沢山いる。
c.
自分はクリスチャンであるという自負がある。もっとも個人的悔い改め等は何も経験していない。悔い改めなどしなくても小さい頃から教会にいっているので、そのままクリスチャンとなっているものと思っている。
d.
幼少時より厳しくしつけられていると、自分はよい子であると思いこんでいる。「聖書の教えを守っているから、良い子である。親のいいつけを守っているから良い子である」と思っている。未信者の家庭にありがちな、道徳的怠惰な生活や暴力的な態度、脅迫的命令の中で育ったことがない、信仰の純粋培養の世界で生きて来ている。
e.
教会内では、たとえ失敗をしたり、いたずらをしてもそれに対して声を荒げる者もいないので、自分は皆に愛されているという自意識が過剰になる時がある。
f.
信仰の第一世代とは価値観が違う。dの項目と重なるが、信仰第一で全てを教えられてきているので、第一世代と違ってこの世的なものに対しては少なからず抵抗を持つ。従って、教会のプログラムに少しでもこの世的なものを見出す時にあきれる。
g.
従って、非常にク-ルとも言える時がある。幼い時から教えられた枠の中からはみ出すことに嫌悪感を持つ時もある。あるいははみだせない。おかげで、はた目からはおもいっきりはしゃげないんじゃないかと心配する時もある。
h.
いつ信仰を持ったのか分からないがゆえに、はっきりとした信仰の確信を持つまではこの問題でかなり悩む。表向きよく教会で明るく、元気であってもいつも親のクリスチャンと並んで見られるために(つまり親がクリスチャンなのでこどももそのままクリスチャンとなるだろうという見方)、本当に自分はそうなのかと悩んでいる。
i.
信仰の純粋培養でも、それだからこそ社会の中での戦いがある。それは第一世代の人々が感じられないほどの戦いである。学校でも、あるいは社会でも、クリスチャンとしてかたくなにその信仰の純粋さを通すことの戦いである。いい加減で済ませないのだ。その戦いを第一世代は余り深刻に考えてくれない事に怒りを感じている。
j.
教会での知的な会話、形而上的な話しで育てられてきたので、おバカな大人の会話には付いていけないでしらける場合もある。一度しらけると、その人のいる教会全体に対する見方もしらけてくる。また、おバカな大人を無視する。
k.
自分の居場所を捜しているのに教会の中で見つけられないので、礼拝には出ても奉仕等に協力的に振舞うことも無くさめてしまっている。
l.
学校で教えられている事ごとと、教会で教えていることごとに開きがある、その正しい理由をいつも捜している。自分としては教会で育ってきた事の方が長いため、教会で教えていることに足を踏み込んではいるが、それが本当に間違っていないのだとも確信できない。だから、中高生になると、個人的な信仰の確立ができていないと心が揺れ動く。そして、教会でそのことに対する明確な指導が得られないと判断すると、教会に連なることがバカらしく思えてくる。
(2010年2月発行No.39掲載)