2.ユースミニストリーとユースの居場所
数年前、クリスチャンの大学生を対象に、それぞれのユース期に体験した信仰の成長や様々なチャレンジについて振り返ってもらうインタビューを実施したところ、その中で繰り返し登場した単語の存在に気づかされました。それらは、「居場所」そして「たまり場」という言葉でした。インタビューの後に、彼らに集まってもらい、自由なグループディスカッションの場を提供したところ、これらの言葉が彼らの話題の中心となりました。個々の表情や声のトーンからも、この言葉が彼らにとって重要なキーワードであることが伺われました。「居場所、たまり場とは具体的にはどんな場所ですか。」というフォローアップ的質問によって、この言葉の意味の定義付けを試みる発言が多くなされ、徐々に彼らの総意が形成されていきました。それらをカテゴリー分けすることによって明らかになった幾つかの事を列挙します。
1)彼らがユース期に参加したクリスチャンキャンプ等は数日間、彼らの「居場所」「たまり場」となった。
2)その場所は空間や建物をも指すが、それ以上にそこでユース同士によって築かれる人間関係を指す。
3)その場所は必ずしもキャンプのように教会外にあるものではなく、教会内にもありうる場所である。
4)その場所は居易い、たまり易いという性質を持つ場所である。
5)その場所は、居る人、たまる人の意思が尊重される場所である。
6)ユースの信仰成長は、この「居場所」「たまり場」を通して起こりやすい。
7)教会にそのような場所が確保されれば、クリスチャンではないユースも集まりやすくなる。
ではここで上記の結果を分析しつつ、具体的なユースミニストリーの取り組みについて考えてみましょう。まず言及すべき点は、クリスチャンキャンプの重要性と価値を再認識する事ではないでしょうか。このインタビューに参加した学生はもとより、他の多くのクリスチャンの若者が、それぞれが属する教団主催のキャンプやhi-b-a のような超教派キャンプを、彼らの信仰や信仰成長の出発点としている事実には非常に驚かされます。また励まされた点は、ユースミニストリーにおいて大切な役割を果たすであろう「居場所」「たまり場」は、キャンプ場だけではなく、教会や個人宅、またはそれ以外の場所にも存在する事が可能であると学生自身が語った点でした。ただここで大前提となるのは、人間関係を構成する複数のユースの存在です。中高生がひとりふたりしかいないという教会であれば、近隣の教会と協力してユースを集めるか、又は積極的に教会外のユースの集まりに教会のユースを送り出す必要があるでしょう。また「居場所」「たまり場」は「人間関係」であるとは言っても、やはり多少の空間スペースは必要となります。日本の平均的な教会のサイズを考え、もし礼拝堂や分級室をその場所とするなら、日曜日の午後や、土曜日や夕方などをユースのための特別な時間帯とするのも得策かもしれません。更にディスカッションによって明らかになった、「集まる人の意思が尊重される場所」に配慮するのであれば、「居場所」「たまり場」でユースが何をするかについて、大人が一方的に彼らに聖書研究に取り組むように命じたり、服装や態度や、そこで聞かれる音楽の種類にまで細かく注文をつけたりすることは控えられるべきかもしれません。(これらの事は思春期の心理的な成長と深く関わり合っています)。しかしだからといって、「居場所」「たまり場」の一切合切をユース自身に委ねてしまうのも得策ではありません。思春期特有の反抗心や性の目覚めは、その方向性を誤ればユースを深く傷つける結果につながってしまうことも十分考えられるからです。したがってここで必要となるのは、有能なユースリーダーの存在です。「居場所」「たまり場」をユースにとって魅力的な場所にしつつ、彼らの信仰の成長と教会全体との関係に目を配り、適切なアドバイスを与える事ができるリーダーが必要なのです。
3.ユースミニストリーとリーダーシップ
クリスチャンの大学生を対象に、自らのユース期に体験した信仰の成長や様々なチャレンジについて振り返ってもらうインタビューを実施した後、「どのような人がユースの居場所やたまり場でリーダーになってくれたら良いと思いますか。」というフォローアップ的質問を投げかけてみました。そこで出された意見を以下に列挙します。「ユースを励ましてくれる人」「ユース文化に理解を示してくれる人」「暖かい居場所、孤立しない居場所を提供してくれる人」「ユースに教えようとする態度ではなく、彼らを知ろう、理解しようとする態度を感じる事が出来る人」「謙遜な人」「命令口調を使わない人」「顔の表情と言葉の語尾が柔らかい人」「ユースの持つ様々な悩みを、動じずに聞く事ができる人」「話しやすい雰囲気を持つ人」「クリスチャンの形にとらわれない、こだわらない人」ではこれらの意見をどのように理解し、具体的なユースリーダー像へと結びつける事ができるでしょうか。まずひとつは、思春期という心理的な激動期の様々な必要を理解し、他のクリスチャンユースとの交わりの中で成長しようとするユースを静かに導く存在ではないでしょうか。言い変えればそれは「暖かく見守り、励ます」ことの出来るユースリーダー像かもしれません。クリスチャンリーダーがユースと向き合おうとするとき、目の前に現れるのは、社会が生み出す様々な歪みと、思春期特有の心理的葛藤の中にあって、傷つきやすい自我を持つ、ある意味ナイーブな存在です。他者との人間関係作りがうまくいかず、対人スキルの欠如に悩むユースが多く存在し、また思春期の期間が以前より長くなっていると言われる日本社会の中で、まだ自己アイデンティティーの形成が発達段階にある若者がクリスチャンのリーダーと出会うとき、「相手から拒絶されないだろうか。」「自分の気持ちを相手は受け止めてくれるだろうか。」といった不安を抱くのは当然のことであると言えます。クリスチャンリーダーは、自らの言動に注意を払いつつ、彼らに笑顔で歩み寄り、彼らに聞き、感情的にも理性的にも彼らの身になって考え、感じることが重要であると思われます。そのような対応の中で、ユースは心を開き、リーダーを受け入れ、リーダーの語る言葉に耳をかたむけるようになるのです。これは、多くのクリスチャンの持つ「教会のユースリーダーは、若くて、アクティブで、彼らをぐいぐい引っ張っていく人でなければならない。」という既成概念とは大きく異なるものであると言えるかもしれません。またインタビューにおいて明らかになった「期待されるユースグループのリーダー像」は、実は聖書の語る成長した信仰を持つ人の性質を表しているとも思います。ガラテヤ書5章22−23節には、「寛容、親切、誠実、柔和」を含む9の聖霊の実が列挙されており、まさにそれは上記のリーダーに当てはまる性質です。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」というマタイ20章26節の言葉も、上記のユースリーダーの、また本文の冒頭で述べられた受動的な働きでもある「diakonia:ミニストリー」に携わる者に必要不可欠な資質なのではないでしょうか。そのような者がリーダーとして立てられ、ユースの自主的な学びを奨励し、彼らを見守り、共に歩み、サポートする時に、ユースの集まる場所が、彼らが霊的に成長し、更にしっかりと教会に結びつけられていく場へと変えられていくのかもしれません。
(2014年1月発行No.44掲載)