聖書からみる教会教育 クリスチャンの霊的成長について 最終回

『福音主義のスピリチュアリティ-霊的成長のための5つの提言-』

はじめに

 私がまだ20代のころ、毎年秋に楽しみにしていたことがあった。それは市ヶ谷ルーテルセンターで行なわれるルター研究所主催の講演会に出席することだった。「ルターとキルケゴール」、「ルターとバッハ」、「ルターとヨハネの福音書」、「ルターとアウグスティヌス」等興味深いテーマの講演が毎年行なわれた。その中で最も印象に残っている講演は、上智大学の百瀬文晃氏が行なった「現代カトリックとルター」という講演だ。百瀬氏によると、1983年のルター生誕500年を境に、カトリック教会内でのルター評価が一変したそうだ。現代カトリックにとって、ルターはカトリックとプロテスタント共通の信仰の父だと再評価されているのだという。ルターが宗教改革によって当時のカトリックに対する根源的な批判をすることができたのは、ルターがアウグスティヌス派修道院の中でカトリックの本質に触れていたからだという趣旨の話だった。

 

ここで話が終わると、「現代カトリックはルターを自分たちの陣営に取り込もうとしている」とも受け取れる。しかし私が最も印象に残っているのは、百瀬氏が講演の最後にルーテル教会に向かって述べたことばだ。それは、「もしルター派の人たちが本当にルターを尊敬するなら、ルターを超えて、ルターが命がけで守ろうとした福音を見なければならない」というものだった。これほど皮肉に満ち、しかも根源的なルター派批判が他にあるだろうか。ルター派の人たちは、この挑発的な発言に何と答えるのだろうか。

 しかし、これはルター派だけの問題ではない。どの教派・教団に属する者にも当てはまる問題発言ではないか。「カルヴィニストが本当にカルヴァンを尊敬するのなら……」、「ウェスレアンが本当にウェスレーを尊敬するのなら……」というように。

福音主義者はどうか。もし、「福音主義者が本当に福音を重んじるのなら……」と問われたなら、皆さんはこの後にどのようなことばを続けるだろうか。私の答えはこうだ。「福音主義者が本当に福音を重んじるのなら、福音主義を超えて、キリストが命がけで与えてくださった福音に生きなければならない」。福音に生きない福音主義者がいるとしたら、それは矛盾である。それでは、福音に生きるとはどういうことか。福音主義者であることが、自動的に福音に生きていることを意味しない。福音主義者であるからこそ、福音に生きることを真剣に追求しなければならない。

 

十回にわたった「クリスチャンの霊的成長について」というこの連載も、今回で最終回を迎える。最終回では、福音主義のスピリチュアリティについてまとめてみようと思う。福音主義者が(福音主義者に限らず)福音に生きるとはどういうことか。教会への五つの提言というかたちで、そして「霊性の神学」構築を視野に入れて論じる。

 

1.福音主義のスピリチュアリティとは――マクグラスを参考に

 20世紀末の段階でマクグラスは福音主義の霊性について「福音主義は、霊性の世界の眠れる巨人である」と述べた(『将来』、195頁)。「眠れる巨人」は目覚めなければならないと呼びかけている。そして「福音主義の霊性の課題」について「問題と提言」として五点を指摘している(178~189頁)。

(1)「過去の遺産に対する無知」(福音主義者は自分たちの霊的遺産について、しばしば不注意であった)。

(2)「時代は変わった」(かつての「静思の時」は、現代の忙しい人々にはほとんど不可能である)。

(3)「福音派による人間的要因の無視」(福音主義は、キリスト者生活の神に向けた面だけを強調することが多すぎて、物事の人間的な面をしばしば見過ごす間違いを犯してきた)。

(4)「福音派におけるモデルの欠如」(多くの人が福音主義の霊性を信頼しなくなったように思われる理由のひとつは、その霊性を身をもって示すような人物があまり知られていないからである)。

(5)「霊性と福音派の神学教育」(福音主義の霊性を奨励するのに熱心な神学教育機関の欠如)。

 これらの問題点は21世紀の初頭において改善されたのだろうか。それとも未解決のままなのだろうか。実はマクグラス自身が福音的な霊性を促進するために四つの提言を行なっている(190~194頁)。すなわち福音主義の霊性は以下の四点を強調し目指さなければならない。

(1)聖書中心であること

(2)神を知る知識が人を変える特質を持つこと

(3)神の自己啓示にこそ堅固で信頼できる基盤を置くこと

(4)霊的訓練の重要性を再発見すること

 この連載はマクグラスが提起するこれらの「問題と提言」に対して直接答えることをめざしたものではない。しかし結果的には多くの点でこれらの問いに対して呼応したものになっている。具体的にどのような点でマクグラスが指摘しているような福音主義の課題にこれまでの連載が応答しているか、五つの提言というかたちでまとめる。

 

2.福音主義のスピリチュアリティ再考にむけて五つの提言

◎提言1:三位一体の神理解の回復――私たちの神観が祈りと霊性を方向づける

 この連載の第2回「霊性と神学は互いに敵同士か――霊性の神学的基礎」で言及したように、神学と霊性は対立するものとして理解されることが少なくない。しかし本来キリスト教において(そして福音主義においても)、霊性はよい神学に土台を置き、神学はよい霊性によって表現されるものである。

 

(1)神学と霊性

 霊性がよい神学に土台を置くべきであることについて、マクグラスは「心と頭とで神を愛する――神学と霊性との関係」の中でこう述べている。「霊性とは、神学で指針を与えられ、約束されていることを、個人的に自らのものとしていくことです。このように、神学によって、キリスト者の生活の確かな土台が提供されているのです」(「心と頭とで」、207頁)。このように霊性とはまさに「教理を生きること」、そして「福音を生きること」である。

 キリスト教の霊性が神学に根ざしたものであることを強調する理由は何か。その大きな理由は、一般的に霊性が主観的なもの、体験的なものとして捉えられる傾向があるからである。もちろん、霊性が「教理を生きること」である以上、体験を伴ったものであることは否定できない。パッカーが『神について』で指摘したように、「神について」知ることと、神を経験的かつ人格的に知ることはまったく異なるものである。ここで問題にしていることは、神が啓示した真理としての神学を土台としないで、自分の体験や主観的な判断、さらには好みや感覚を中心にした信仰理解であり、霊性理解である。第8回「キリスト者の生活の全体像――<自己の変容>のために」で指摘したように、「私の欲求」・「私の必要」・「私の感覚」が信仰生活と教会生活を、ひいては聖書の読み方まで判断する基準になることである。ここにこそ、霊性が神学に土台を置くものでなければならない最大の理由がある。

 

(2)霊性の土台としての三位一体

 それでは、霊性の神学的な土台とは何か。この連載では特に、神学的土台として三位一体の神理解が私たちの霊性に及ぼす影響について考えてきた。なぜ福音主義の霊性を探求するに当たって、三位一体の神理解が重要なのか。その最大の理由は、ストットも指摘していたように、福音主義の信仰が伝道や回心の経験以上に、三位一体の神に対する信仰に基づくものだからである(連載第1回参照)。またパッカーは「霊性の福音的基礎」の中で、クリスチャンの信仰生活と霊性に関する近年の議論において、聖書に基づいた三位一体論の欠如という問題を指摘している。ニカイアおよびコンスタンティノポリス信条やピューリタンの神学に基づきながら、パッカーは、神の創造と救いの目的は、三位一体の神の愛の交わりの中に被造物を招き入れることであったとしている。さらにクリスチャン生活の本質は、この三位一体の神のうちにある交わりのいのちにあずかることである。その意味で、健全な霊性は徹頭徹尾三位一体に基づくものでなければならない(153~154頁)。

 さらに三位一体の神理解が重要なのは、私たちの神理解が祈りを方向づけるからである。ジェームズ・フーストンが『神との友情』の中で強調していることは、私たちの祈りは、私たちが神をどのようなお方として理解し経験しているかによって決定されるということである。クリスチャンの祈りとは、「御子を通して、聖霊によって、父なる神に祈ること」である。したがって私たちの祈りは、この三位一体の神との間の愛と友情に対する私たちの応答である(10-11頁)。

 

(3)具体的提案――三位一体を実践するために

 フーストンは「三位一体の神学は必然的に交わりを生むものである」と述べている。さらにデヴィッド・カニンガムは、「関係性」というカテゴリーこそ、今日の三位一体論の議論が再発見した重要なコンセンサスであると指摘している。その意味で、三位一体に基づく霊性理解は、クリスチャンの「交わり」を再発見・再評価するものである。二つの具体的提案をする。

 第一に、私たちがクリスチャンとして成長し霊性が形成されるために、「友情」、「霊的導き」、「信仰共同体としての教会」が果たす役割を見直し、具体的に実践することである。これら三つは「霊性を形成し実践する場」として第4回から第7回の連載で扱ったものである。どれも交わりおよび関係性に基づくものである。クリスチャンとしての成長は交わりにおける成長である。神との交わり、人との交わりが豊かになることである。言い換えると、個人主義、孤立や嫉妬、エリート主義、競争心、敵意などは私たちの交わりを破壊し、神との交わりをも破壊するものである。その意味で、友情、霊的導き、信仰共同体としての教会は私たちの信仰を吟味するものであり、成長させるものである(「信仰共同体としての教会」については、提言5を参照)。言い換えると、神との交わりに生かされている者は、人との交わりに生き、その交わりによって人を豊かにし、自分自身も豊かにされる。

 第二に、フーストンの本を読もう。フーストンの著作は三位一体の神を信じて歩むことの恵みを存分に証ししている。現在翻訳されている『神との友情』、『心の渇望』、『喜びの旅路』(いずれもいのちのことば社刊)を通して、三位一体の神との交わりに生きることの幸いを再考してみよう。

◎提言2:「福音に生きる」ことの再定義

 福音に生きていない福音主義者、これは矛盾である。それでは福音主義に身を置くクリスチャンは真実の意味で福音に生きているだろうか。福音に生きることは、福音主義者にとって自明なことなのだろうか。

(1)福音主義者が「福音に生きる」とは

 そもそも、福音主義者が「福音に生きる」とはどういうことだろうか。もちろん、「福音に生きる」ことは福音主義者にとってだけ重要なことなのではなく、すべてのクリスチャンにとって最重要な事柄である。そうであったとしても、福音主義者が「福音に生きる」ことの特徴は何だろうか。「福音に生きる」ことについて、ふたつのことを考える。

 第一に、霊性とは「福音を生き抜くこと」である。ピーターソンはこう言う。「キリスト教の霊性とは、福音の全体を生き抜くことである。すなわち、霊性はあなたの生活のすべての要素――子ども、配偶者、仕事、天気、財産、人間関係――を含み、そのすべてを信仰の行為として経験することである。神は私たちの生活のすべてのものを望んでおられる」(第1回連載参照)。それゆえ、キリストの福音を信じることによって新生したクリスチャンにとって、「福音を生きる(生き抜く)」、「福音に生かされる」ことこそが、その生き方とならなければならない。私たちの生のすべてを福音によって、福音のために生きることを追求しなければならない。

 

 第二に、福音主義の霊性とは聖書中心であり、十字架に生きることである(マクグラス『将来』、178頁)。したがって、「福音に生きる」こととは聖書中心であり、十字架に生きる生き方である。聖書中心の生き方とは、単に聖書観の問題ではなく、聖書の読み方の問題であり、聖書を読むことによって私たちが霊的に成長してゆくような読み方を追求してゆくことである。十字架に生きることとは、キリストとともに死にキリストとともに生きることである。宗教改革者ルターが語った「十字架の神学者」についてのことばに、私たちは耳を傾けなければならない。ルターによると、「十字架の神学者」とは、受難と十字架によって神を理解する者である(「ハイデルベルクにおける討論」命題20)。ルターはこう続ける。「受難によってむなしくされた者は、もはや自ら働かないで、神が自分の中に働きたまい、すべてのことを導きたもうことに気づくのである。それゆえ彼が働くかそうでないかは彼にとっては同じことであり、自分が働いても決して誇ることはしないし、神が彼の中に働きたまわなくとも決して狼狽しない。十字架によって苦しみぬき、打ちやぶられ、その結果ますます無に帰せられるならば、それで十分であることを彼は知るのである。しかしこのことは、キリストがヨハネ3章〔7節〕に、『あなたがたは新たに生まれかわらなければならない』と言っておられるところである。もし生まれかわろうとするならば、それゆえまず死に、次いで人の子とともに高く上げられるのである。死ぬということは換言すれば、それは死を現在のものとして感ずることである」(「ハイデルベルクにおける討論」命題の証明24)。

 

ルターのこのことばが時代遅れなのか、それとも私たちが宗教改革の精神から外れているのか。今日の福音主義者は、そのことをよくよく考え直す必要があるのではないだろうか。

(2)具体的提案――「福音に生きる」ことの落とし穴を考える

 まず、「福音に生きる」ことを再考するために、その裏返しである「福音に生きていない」ことを考えてみよう。マクグラスが指摘する福音主義の霊性の課題の中に、「福音派による人間的要因の無視」という問題があった。すなわちマクグラスによると、福音主義はキリスト者生活の神に向けた面だけを強調することが多すぎて、物事の人間的な面をしばしば見過ごすという間違いを犯してきたのである。

 このように信仰生活における人間的要素を無視あるいは軽視した結果はどうだろうか。この点に関して重要な指摘をしているのがスキャゼロの『情緒的に健康な教会をめざして』である。クリスチャンの中で、特に教会の指導者たちの中で情緒的な問題が扱われないで放置されると、どのような問題が起こるかをこの書は解明し、その解決策を提案している。ここで注目しなければならないことは、クリスチャンは時として、「神が私たちに死ぬように決して求めておられないことに対して」死んでいることである(33頁)。このような状況についてスキャゼロは次のように説明している。「イエスは、私たちが自分自身に死ぬように要求しておられる。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』(マルコ8:34)。しかし問題は、私たちが間違ったことに対して死んでいることである。福音のために自分に対して死ぬということは、自分を大切にすることや、悲しみ、怒り、嘆き、疑い、葛藤、健全な夢や願望、また結婚するまで頼んでいたものを捨て去ることであるというように、どこかで間違って理解してしまっている」(32頁)。

 私たちはこのスキャゼロのことばをどう評価したらいいのだろうか。彼の本を読み、祈りながらじっくり考える必要がある。「福音に生きる」ということとの関係で言うなら、私たちはキリストのために「死ぬ」ことを強調しすぎて、キリストのために「生きる」ことを十分に、正当に、そして具体的に評価してこなかったのかもしれない。そのことが私たちの信仰生活と教会生活を貧しいものにしてきたのではないだろうか。

 

◎提言3:自己の変容、すなわち「心」が扱われること

 キリストは私たちの心の中に住み、私たちの心に働かれる。「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように」(エペソ3:17)と記されているように、キリストは私たちの心の中に住み、私たちがキリストの満ち満ちた愛と恵みを理解するようにしてくださる。

 聖霊も私たちの心の中に住み、私たちの心に働かれる。「神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました」(第二コリント1:22)と記されているように、御霊なる神が内住するのは、私たちの心のうちである。御霊が実を結んでくださるのも、私たちの心のうちである。クリスチャンの霊的成長を求める上で、神が私たちの心を扱われ、私たちを新しく造り変えてくださることを祈らなければならない。

 

(1)「心」が変えられることと霊性

 教会史家ベビントンによると、福音主義の特徴のひとつに「回心主義」が挙げられる。これはキリストを信じる者の生き方、生活、行動が変えられなければならないという確信である(連載第1回参照)。「福音主義の霊性は、神を知る知識が人を変える特質を持つことを少なからず強調する」と言われるとおりである(マクグラス『将来』、192頁)。

しかし、私たちの生き方や行動が真の意味で変えられるのは、私たちの心が変えられる時である。一体、私たちの心が変えられない回心などというものがあるのだろうか。この点に関してマクグラスは、キリスト者の思想と生活にとっては、ただ単に教理を肯定することだけに焦点を当てることは、深刻な欠落を意味すると指摘している。「神学的な正しさのみでは、私たち弱く罪深い人間の傷を癒す薬とはなりません。心を無視しておいて、頭を養うことはできません」(「心と頭とで」、203頁)。「霊性とは、私たちが神に出会い、神を体験すること、そして、その出会いと体験の結果、私たちの意識と生活が変容することに関するすべてです」(205頁)。「霊性の目指すものは、私たちが神について知り、そして同時に神を知ることを確かなものとすることです。私たちの頭だけではなく、心にも神を適用しようとすることが霊性です。神を人格的に深く知ることについて扱うのが霊性です」(207頁)。このように、神を知るということは、神を知る知識によって私たちの心と生き方が変えられてゆくことである。

 

(2)ジョナサン・エドワーズと「心の宗教」

ジョナサン・エドワーズはアメリカの福音主義の源流に位置する神学者である。彼が牧会していたノーザンプトン教会があるニューイングランド地方では、1740年代に「大覚醒」と呼ばれるリバイバルが起こった。しかし年月が経過する中でリバイバルの衰退化と熱狂化の双方を目撃し、エドワーズは神の御霊が確かに働いたしるしは何かという探求を始める。それがReligious Affections(1746)として知られる大著である。あえてタイトルを意訳すれば、「敬虔な心」、「宗教的愛の感情」、「宗教感情論」などと言えよう。

 ここでひとつ注意が必要なことは、affectionsということばの意味である。これは確かに「感情」と訳すこともできるが、エドワーズはむしろ「心」に近い意味で使っている(96頁)。

エドワーズによると、外面的な変化はサタンも起こすことができ、聖霊が働いた確かなしるしとは呼べない。エドワーズによると、聖霊が働いた確かなしるしとは、心が変えられることである。心が「キリストにある喜び」と「キリストへの愛」に満たされることである。エドワーズがReligious Affectionsで展開した「心の宗教」や「心の変化」(49頁)に関する主な主張について以下に箇条書きで紹介する。

・神のことばを霊的に適応することは、それを心に適応することだ(225頁)。

・人はまず神を愛すること、自分の心を神に結びつけることをしなければならない(241頁)。

・霊的で超自然的な感覚が、人に大きな変化をもたらす(275頁)。

・真のキリスト教は謙遜、そして自己否定の中にある(314-315頁)。

・真に敬虔な感情は、純粋で砕かれた心から溢れ出る(339頁)。

・聖書は回心を新生や新創造のように「性質(本性)の変化」として表現している(340頁)。

・キリストは心に住んでおられる。聖霊も心に住んでおられる(392頁)。

・恵みに満ちた感情は心の奥底にまで至る(393頁)。

 まとめると、真の変化は心の中で起こらなければならず、この変化はこの世での生涯にわたってわざと礼拝というかたちで表現される(51頁)。真の変化が心の中で起こるためには、心が神のことばによって扱われ、神のことばが心に適応されなければならない。信仰の実践は心から始まるものである。

 

(3)具体的提案

 キリストも聖霊も私たちの心の中に住み、私たちの心に働かれる。私たちの心が聖霊の働きを受けるために、ふたつのことを心がけてみてはいかがだろうか。

 第一に、エドワーズを読もう。Religious Affectionsをはじめエドワーズの著作はほとんど日本語に翻訳されていない。したがって英語で読む必要がある。ただし、インターネット上の「<葡萄の実>ほん訳ミニストリー」ではReligious Affectionsが『宗教感情論』という題名で全訳公開されているので助けになる。

 第二に、心を包み隠さず話すことができる友や相談相手を持とう。この世には自分の心を隠し続けて生きるクリスチャンや牧師が何と多くいることだろうか。自己を隠し、自己を欺いて、心が神の前に取り扱われることを避ける思いに支配されないために、信仰の友や霊的な助言者と定期的に話す。表面的にではなく、心の内を話す。このように霊的な友情や交わりを学ぶよい見本がピーターソン著『信仰の友への手紙』(いのちのことば社)である。

 

◎提言4:「キリスト者の生活の全体像」を描く

私たちは信仰を持った後のクリスチャンの生き方をどのように捉えているだろうか。「キリスト者の生活の全体像」(連載第8回)で論じたように、私たちは信仰生活の全体像が描けているだろうか。クリスチャンは証しや伝道の他にどのような生き方をしたらいいのだろうか(もちろん、証しや伝道が重要であることは言うまでもないが)。教会での自分の顔と学校や職場での自分の顔が違うことに、私たちは気づくことがある。私たちは教会でも、家庭でも、学校でも、職場でも、地域でも、クリスチャンとして一貫した生き方をしているだろうか。ここに「キリスト者の生活の全体像」を描くことの必要性がある。

 

(1)「キリスト者の生活の全体像」とは

 「キリスト者の生活の全体像」とは、クリスチャンとしての生き方を分析するのではなく、総合的かつ統合的に理解する視点のことだ。福音主義に立つ教会は、このような大きな視点を見失っていないだろうか。ポストモダン的状況の中で近視眼的になっていないだろうか。福音主義の教会は、もう一度、クリスチャンとしての全生活・全生涯をキリストの福音との関係で理解し直す必要がある。ピーターソンが言うように、クリスチャンの生活のすべてが「福音を生きる」ことに結びついていることを求めなければならない。

 

(2)具体的提案

 第一の提案は、「キリスト者の生活の全体像」で論じたカルヴァンの「キリスト者の生活」(『キリスト教綱要』第Ⅲ篇第6~10章)を読むことだ。カルヴァンが「キリスト者の生活」として語っているキリスト者の生活の目標としての「聖さ」(6章)、「自己否定」(7章)、「十字架を忍び耐えること」(8章)、「来たるべき生への冥想」(9章)、「現在の生とその手段をどう用いるか」(10章)を読もう(読み直そう)。私たちはカルヴァン主義者になるためにこの箇所を読むのではない。カルヴァンが語ることを土台にして、「キリスト者の生活の全体像」を捉えるために読むのである。聖さや自己否定を説くカルヴァンは時代遅れ、厳格主義なのか。それとも今日の福音主義クリスチャンがあまりに宗教改革の(そして聖書が教える)信仰像から離れているのか。カルヴァンが言い足りない、あるいは言っていない点があれば、カルヴァンにつけ加えなければならない。しかし私たちに欠けている、あるいは見失っている点をカルヴァンが指摘しているとしたら、カルヴァンに学ばなければならない。福音主義の源流に位置する宗教改革者カルヴァンを読むことは、霊性の豊かな伝統を再発見すること、あるいは宗教改革-福音主義の伝統に欠けているものを見出す契機になるはずである。もちろんカルヴァンに限らず、信仰の全体像を語ったその他の先人をも発掘し、学び、再評価し、私たちの信仰生活に適応すべきであることは言うまでもない。

 

 第二の提案は、前述のスキャゼロ著『情緒的に健康な教会をめざして』を読むことだ。スキャゼロの問題提起は、「霊的な成長と情緒的な成長とは切り離せない」ということである。「情緒的な健康」ということばで彼が何を意味しているかについては本書を読んでもらうことにゆずることにして、スキャゼロは「情緒的に健康な教会の六つの原則」として以下の点を挙げている。

(1)水面下を見る

(2)過去の影響を打ち破る

(3)弱さを抱えたまま生きる

(4)限界という賜物を受け入れる

(5)悲しみや喪失を受けとめる

(6)「受肉」に倣って人をさらに深く愛する

私たちはクリスチャンとして「情緒」と呼ばれている問題をどう扱ったらいいのだろうか。福音主義は「情緒」の問題を扱う術を持っているのだろうか。スキャゼロが指摘するように、クリスチャンが「情緒」の問題を今まで認識していなかった(あるいは無視していた)のだとしたら、私たちはこの問題に対して無防備なのではないだろうか。このような点を考え直すために、スキャゼロの本を読み、可能なら教会内で有志の読書会を持ってはいかがだろうか(私の教会ではスキャゼロの読書会が現在進行中である!)。もしスキャゼロが言うように、教会のどんな働きも教会のリーダーの情緒的・霊的な健全性にかかっているのだとしたら、そして「キリスト者の生活の全体像」の中に「情緒の健全性」の問題を含めるためにも、私たちはスキャゼロの問題提起を聞き流すことはできない。

 

◎提言5:「信仰共同体としての教会」に生きる――霊的成長の場として教会

 先に「提言1:三位一体の神――神理解が祈りと霊性を方向づける」で見たように、交わりのないところにクリスチャンの信仰はない。なぜならクリスチャンの信じる三位一体の神ご自身が、永遠の交わりのうちに存在されるお方だからである。クリスチャンがこの三位一体の神の愛と交わりを経験する場が教会である。教会こそ神の豊かな愛と知恵が表される場だからである(エペソ3:10参照)。ピーターソンによると、私たちがキリストにある成熟へと成長する場は教会である。私たちがキリストにあって成長することを真剣に求めるなら、遅かれ早かれ教会を真剣に扱わなければならなくなる(Practice Resurrection、11頁)。

 

(1)ふたつの危険

 クリスチャンの霊的成長において教会が果たす重要な役割を強調する時に、ふたつの危険を考えなければならない。ひとつ目の危険は「個人主義」である。先に指摘したように、「私の欲求」・「私の必要」・「私の感覚」を信仰生活を判断する基準にすることは、信仰がクリスチャンの交わりによって成長する現実と真っ向から対立する。私たちが知らない間に自分自身を価値基準の中心にしていないか、注意しなければならない。

 もうひとつの危険は「活動主義」である。教会がクリスチャンの霊的成長に不可欠であると強調することは、「教会出席を第一とせよ」、「もっと奉仕をせよ」などと言うことではない。教会の重要性を強調することは、単なる礼拝出席、奉仕、伝道、聖書通読と「静思の時」、社会的責任を強調することではない(もちろんどれも大切なことではあるが)。これらの活動や行為を外面的に強調することは、注意していないと「わざによる義」となり、ルターが「十字架の神学」で主張している十字架に生きる生き方と正反対のものとなる。

 

(2)具体的提案――福音主義の教会論を再検討する

 霊的成長という観点から信仰共同体である教会の重要性を強調してきた。それでは、福音主義の教会論の特徴とはどのようなものだろうか。福音主義は積極的かつ建設的な教会論と実践を提示しているだろうか。「福音主義ならではの教会論」というものがそもそもあるのだろうか。

 この点に関してマクグラスが示唆に富む指摘をしている。マクグラスが指摘する福音主義の教会論は、一見すると矛盾に見える二つの特徴を併せ持つ。一方で、福音主義はキリスト者の信仰生活と霊的成長のために、キリストのからだである教会が果たす役割の重要性を深く意識し、教会に献身している。他方で、福音主義は教会および教会制度についてある特定の(あるいはひとつの教派の)説に固執することはない。たとえばカルヴァンは教会についてある特定の説を表明したが、福音主義者はカルヴァンが信奉した教会に関する特定の説を支持する必要を認めなかった。福音主義者は聖書から正当化される教会観にある程度の幅を認めているからである(『将来』、110~120頁)。

 したがって、ここで提案することは、「福音主義の教会論」を構築することではなく、個人主義と活動主義に陥ることなく、キリストのからだであり信仰共同体である教会を通してクリスチャンが成長を祈り求めて具体的に歩むことである。こう言うといかにも理想論の提言に聞こえるかもしれない。具体的に考えよう。ボンヘッファーの次のことばをあなた自身とあなたが集う教会に当てはめて考えてみよう。「聖徒の交わりに属する一人一人は、お互いがお互いのために生きます。彼らは、互いにはげましあい、慰めあい、赦しあいます。彼らは、その持物と存在とのすべてをかけて、互いに愛しあい、仕えあいます。彼らは、自分たちが永遠にともにあるものだということを知っています(使徒2:42以下)」(「現代信仰問答」、85頁)。私たちの歩み、私たちの教会の歩みはどうだろうか。

 

おわりに

 それは、私がリージェントカレッジ時代に、J. I. パッカーの組織神学の授業を取っていた時のことである。人間論のレポートで「カルヴァンによる霊性」というテーマを選んだ。パッカーに対して「カルヴァンによる霊性」というテーマでレポートを提出するということは、言ってみればルターに対して「信仰による義」を説くようなものである。そのことに私はその時、気づいていなかった。今思うと冷や汗が出る。必死に書いたレポートに対してパッカーは丁寧なコメントをつけて返却してくれた。そのコメントは「霊性とは、神に生きること(ALIVE TO GOD!)である」としめくくられていた。霊性を論じるに当たって本筋から外れてはならない、というパッカーの確信がにじみ出た警告であったと、今は受け留めている。

 この連載は私たちが「神に生きること」に貢献するものだっただろうか。福音主義者が「福音に生きる」とは、「神に生きること」である。「神に生きる者」は「人とともに生きる者」である。三位一体の神との交わりに生きる者は、人との交わりに生きる者である。神は私たちに愛といのちを与えることによって、私たちをも神の愛といのちを分かち合う者としてくださる。これは理想論だろうか。これを理想論として退けるか、神がキリストにあって、聖霊によって与えておられる恵みとして受け取るかによって、私たちが「神に生きる者」かどうかが明らかになる。もしこれを理想論として退けずに、「これこそ神がキリストにあって聖霊によって私たちに与えてくださった恵みだ」と確信する読者がひとりでもいるとしたら、神の恵みをほめたたえずにはいられない。主に栄光あれ!

(2010年12月発行No.40掲載)

 

主な参考文献

ピーター・スキャゼロ『情緒的に健康な教会をめざして――教会の成熟に不可欠なもの』鈴木茂・鈴木敦子訳(いのちのことば社、2009年)

ジェームズ・フーストン『神との友情――あなたを変える祈り』坂野慧吉監修(いのちのことば社、1999年)

ボンヘッファー『現代信仰問答』森野善右衛門訳(新教出版社、1961年)

アリスター・マクグラス『キリスト教の将来と福音主義』島田福安訳(いのちのことば社、1995年)

  1. E. マクグラス「頭と心とで神を愛する――神学と霊性との関係」伊藤明生訳『ポスト・モダン世界のキリスト教――21世紀における福音の役割』稲垣久和監訳(教文館、2004年)

ルター「ハイデルベルクにおける討論」久米芳也訳『ルター著作集』第1集第1巻(聖文社、1964年)

Smith, John E. The Works of Jonathan Edwards. Vol. 2, Religious Affections. New Haven: Yale University Press, 1959.

Packer, J. I. “Evangelical Foundations for Spirituality.” Gott lieben und seine Gebote halten / Loving God and Keeping his Commandments: In memoriam Klaus Bockmüel, ed. Markus Bockmuehl and Helmut Burkhardt, 149-162. Basal: Brunner Verlag Giessen, 1991.

Peterson, Eugene H. Practice Resurrection: A Conversation on Growing Up in Christ. Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2010.

 

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