聖書からみる教会教育 クリスチャンの霊的成長について 第9回
『霊性の社会的広がり―<霊的であること>と<預言者的であること>』
はじめに
霊性(スピリチュアリティ)に関して時々言われる否定的な意見の中に、「社会的視野と関心の欠如」を挙げることができる。「霊性を強調すると、クリスチャンの関心が神のことと自分自身の内面のことだけに向かい、クリスチャンの社会的責任や職業、世界等への関心が薄れるのではないか」というようなものだ。
この点に関連して思い出すことがある。それは私がカナダのリージェント・カレッジに留学していた時のことである。霊性に関する授業でレポートを書く時に私が度々使った、秘密(?)のテクニックがあった。これが結構役に立ったのだ。それは、この「社会的視野と関心の欠如」を指摘することだ。たとえばレポートを書く時に、「この著者の霊性の捉え方には、社会との関わりという視点が欠如している。神を深く知った者、それに基づいて自分の内面を深く知った者は、当然社会との関わり方も変えられるはずではないか。その点が論じられていない」というような指摘をするのである。先生方のコメントは多くの場合、「大事な点を指摘している」というものだった。
本当にそうだろうか。「霊的だけれども、現実逃避のクリスチャン(今流に言うと『引きこもりのクリスチャン』)」ということがありうるのだろうか。もちろん、クリスチャンの中に引きこもりの問題が起こらないと言っているのではない。引きこもりと言われている人たちの心の痛みは十分に理解しなければならないのは、言うまでもないことである。
今回は、霊性の社会的かつ世界的な広がりという問題について、聖書の中で社会と対峙した代表的人物像である「預言者」という観点から考えてみる。
1.預言者とは誰か――霊性の観点から
聖書を見る時、まことの神から離れて異教の神々へと向かう社会と対峙した存在として、預言者を挙げることができる。
そもそも預言者とはどのような存在だろうか。マウンスの聖書用語辞典によると、歴史的に見た時、預言とは神から人々への伝達であり、神に選ばれた代弁者である預言者が、神の御霊に動かされて語るものである(第二ペテロ1:20-21)。旧約聖書の預言者は、同時代の神の民の中に見出されるあらゆる問題について語った。たとえば偶像礼拝、イスラエルの指導者の自己中心、社会の不正等々。彼らはしばしば人々に対するさばきのことばを語った。その一方で、人々が悔い改めるなら希望があることも語った。彼らのことばは将来の事柄に及ぶこともあった(Mounce、544頁)。
さらにユージン・ピーターソンは、預言者について次のように語っている。数百年にわたって、古代イスラエルは多数の預言者を生み出してきた。彼らは神の現実、すなわち神の命令と約束と生ける臨在を、力強く巧みなことばを駆使して人々に提示してきた。預言者が語った人々は、自分たちが空想し、作り上げた偽りの神を信じて生きていた。それに対して預言者は、私たちではなく神こそが、私たちの人生の中心であると主張した。私たちは神を、神が啓示されたように受け留めなければならず、私たちの想像に基づいて神を理解してはならない(Peterson、102~103頁)。
これらのことから、霊性との関連で、預言者について何がわかるだろうか。マウンスとピーターソンによる預言者についての考察は、霊性の社会的広がりの問題を考えるに当たって、どのような視点を提供しているだろうか。二つの点を挙げることができる。
第一に、預言者は、神のことばを、神から離れた「神の民」に対して語った。すなわち預言者は、神の啓示から外れた神の民に対して、改めて神の啓示のことばを語ったのである。
第二に、預言者は、神のことばを、神から離れた「この世」に対して語った。すなわち預言者は、社会の不正について、場合によっては指導者の罪についても大胆に語った。
この二点、すなわち預言者が「神の民」と「この世」に対して神の啓示のことばを語ったことについて、ブルーゲマンとドアの見解を参考にして、霊性の社会的広がりの観点から考える。
2.「神の民」に対して語る預言者
預言者は、神から離れた神の民に対して、何を語ったのだろうか。何のために語ったのだろうか。預言者の働きは、神の民の霊性にとってどのような役割を果たしたのであろうか。このような問題を、旧約学者ウォルター・ブルーゲマン著『創造的なことば――聖書的教育のモデルとしての正典』(1982年)を参考に考える。
(1)ブルーゲマンによる預言者理解
『創造的なことば』は旧約聖書正典が持つ律法(トーラー)、預言書、諸書という三重構造に基づいて、次世代を育成する教育とはどうあるべきかという問題に対する聖書的視点を提案した書である。特にブルーゲマンの預言者理解は、霊性の社会的広がりの問題を考えるに当たって重要な示唆に富んでいる。以下に関連する五点を要約する。
①旧約聖書正典には、エレミヤ書18章18節に書かれているように、三重構造がある。「……祭司から律法が、知恵ある者からはかりごとが、預言者からことばが滅びうせることはないはずだから」。この「祭司から律法が」、「知恵ある者からはかりごとが」、「預言者からことばが」はそれぞれ律法、諸書、預言書という旧約正典の三重構造を表している。信仰共同体はこの三者すべてに注意深くあらねばならない。どれかひとつだけを重んじたり、他を従属させてはならない(Brueggemann、7~8頁)。
②律法(トーラー)は、最も基本的な権威であり、モーセ的な権威を主張している(9頁)。律法は、信仰共同体としてのイスラエルの「精神」(エートス)あるいは「特質」を述べたものである。律法は、信仰共同体の性格がどのようなものであるかを定める。律法が信仰共同体について定たことは、新しい世代の間で議論の余地なく受け入れられなければならない。信仰共同体は個人に優先するものであって、個人がどのように生き成長するかについては、個人でなく信仰共同体こそが律法に基づいて規定する(12頁)。
③預言書の中で私たちが見出すのは、神とイスラエルの「苦しみ」(パトス)である。そこには、すでに手にしているものと約束に基づいてやがて実現するものとの間にある「裂け目」の感覚が伴っている。預言書が私たちに明らかにしているのは、そのような裂け目は、力によってではなく、苦しみによって克服されるという確信である。したがって預言書は、この信仰共同体に属する憤りや苦悩を反映している(12頁)。
④諸書は、トーラーと預言書以外のすべての書のことである。その中で代表的なものは詩篇、ヨブ記、箴言である。諸書に一貫するテーマを一言で表現することはできないが、箴言に限って見れば「知恵ある者のはかりごと」が書かれており、それは「ことば」(ロゴス)と言うことができる。このロゴスは隠されていると同時に啓示されている(9~10、12頁)。「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ」(箴言25:2)と言われている通りである。
⑤律法は生活の中心、記憶の核、すべての経験を統合する焦点である。しかし律法だけしか教えられないなら結局は害になる。すべては固定化され、安定し、繰り返される(40頁)。ここに預言書が持つ特別の意義がある。預言者のことばは、直接的で、割り込み、驚きを起こさせるものだ。律法のように規範的ではない。律法を破壊し、律法に基づく共同体の合意に挑戦し、これまで批判することが許されなかったものを批判する。ある意味で預言書は、律法によって律法と論争する(41頁)。預言書の権威は、神のパトスに基づいている。預言者の破壊性は、神の破壊性を反映している。新しい真理は、神の苦しみにあずかる苦しみの現実のうちに来る(65頁)。
(2)まとめ――「神の民」に語る預言者と霊性
ブルーゲマンの預言者に関する見解から、「霊性の社会的広がり」についてどのような示唆を得ることができるだろうか。
第一に、聖書(特に旧約聖書)が教える信仰者と信仰共同体の歩みは、律法、預言書、諸書という三重の正典が持つバランスの上に成り立っているということである。クリスチャンの霊性と社会参加・社会的責任の問題は、両方とも重要であることは間違いない。当然考慮しなければならない問題である。しかし、律法、預言書、諸書から成り立つ旧約聖書の正典がクリスチャンに対して描き出す信仰の歩みは、決して「初めに、社会参加ありき」ではないということである。律法の権威、預言者の苦しみ、諸書の知恵のバランスの中で、社会との関わりを位置づけなければならない。
第二に、旧約聖書正典の中で、特に預言書は、律法の権威に基づいているにもかかわらず固定化し、霊的いのちを失い、異教の神々に走った信仰共同体に対して、神のいのちを新たに吹き込むものである。ある意味で預言書は、律法の権威に挑戦し、破壊する。いわば律法の権威に基づいて、律法に挑む。「多くの国々の民がこの町のそばを過ぎ、彼らが互いに、『なぜ、主はこの大きな町をこのようにしたのだろう』と言うと、人々は、『彼らが彼らの神、主の契約を捨てて、ほかの神々を拝み、これに仕えたからだ』と言おう」(エレミヤ書22章8~9節)。「また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった」(同25章4節)。律法が与えられているにもかかわらず、神から離れて異教の神々に仕える反逆の民に対して、預言者エレミヤは神からのことばを語り続けた。
霊性の社会的広がりという点から考えると、預言者は、神のことばである律法を与えられている神の民が律法の教えから離れた時に、神の啓示によって新たに神のいのちに神の民を引き戻そうとした。その意味で、預言者による霊性とは、まず神の民を神のことばによるいのちに回復することである。確かに預言者は、王の不正や罪について語った。しかしそれは律法にそむく罪、律法を与えた神にそむく罪である。
預言者を通して、私たちは固定化し硬直化した信仰生活、聖書と神学に基づいてはいるが霊的いのちを失った信仰生活から立ち返り、もう一度神のことばに聴き、従うことによって信仰のいのちを取り戻すことの重要性を学びなおさなければならない。
3.「この世」に対して語る預言者
アフリカと南アメリカで宣教師として働いた経験のあるドナル・ドアは、『霊性と正義』(1984)の中で、霊性と社会正義の関係を論じている。本書は直接的に預言者と霊性の関係を扱ったものではないが、霊性と社会正義の関係、すなわちクリスチャンとして「この世」とどのように関わるべきかという問題を扱った書として、注目に値する。
(1)ドアによる霊性と正義
以下に、ドアによる霊性理解と社会正義との関係の中から、特に重要な五点を概略する。
①伝統的な霊性理解への批判
ドアによると、霊性に関心のある人々の多くは、社会活動に参加する人々に対して反発を感じている。社会活動家が正義のために生涯をささげていることは認めつつも、彼らの多くが内面の静けさを欠き、活動に明け暮れ、「自分自身も他者をも破壊する怒りの感情を内に秘めていること」が少なくない点を見逃すわけにはいかないからである。その一方で、社会正義に関心のある多くの人々は、伝統的な霊性理解に批判的である。彼らの目にそれは、社会的側面に欠けた個人主義的な信仰理解であり、この世とかけ離れた「現実逃避」に映る(Dorr、1頁)。
②「バランスの取れた霊性」の必要性
霊性と社会正義へのこのような対立的な見方を受けて、ドアは「バランスの取れた霊性」の必要性を訴える。そのためにドアが注目するのは、ミカ書6章8節である。
主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、
へりくだって
あなたの神とともに歩むことではないか。
この節が言う「公義を行い」、「誠実を愛し」、「へりくだってあなたの神とともに歩むこと」という三点に基づいて、「へりくだってあなたの神とともに歩むこと」を「宗教的回心」、「誠実を愛し」を「道徳的回心」、「公義を行い」を「政治的回心」と位置づける。ドアによると、宗教的回心とは、神のものとされている意識、神との人格的な関係に入れられることである。道徳的回心とは、友人、家族、地域社会等の対人関係における変容、敬意と優しさをもって他者に接することである。政治的回心とは、社会がどのような構造を持ち機能しているか、不正を正すために行動しているか、貧しい者や社会的弱者を配慮しているか等の現状認識に基づいて、神の正義に基づく社会を作り出すために力を注ぐことである。つまり、ドアが主張する「バランスの取れた霊性」とは、宗教的回心、道徳的回心、政治的回心のすべてを含むものである。この三つの回心が結びつくところに、真のキリスト教の霊性がある(8、12~13、16、18、217頁)。ドアの問題意識は、次のことばに端的に表れている。「私たちは、観想的に人生にアプローチすることと、社会正義のためにコミットすることを結びつける道を見出すことができるのだろうか」(124頁)。
③心が変えられた者は、この世との関係も変えられる
心が変えられた者は、この世との関係も変えられる。言い換えると、心を変えられた者(宗教的回心)こそ、世界を変える者(政治的回心)となるのである。「神の国の価値観」で生きる者は、宗教的、道徳的、政治的回心を経験している。宗教的回心をした者は、所有財産、権力、社会的地位、そして宗教の理解に対する態度が変容する(96頁)。人間の心の最も深い渇きは、人間の最大の苦悶と格闘のあるところで見出される。全被造物も贖いを待ち望んでうめいている(ローマ8:22参照)。つまり、魂の最も深いところで変えられた者こそ、社会と世界を変える力を持つ(103頁)。
④霊性の伝統の継承――<見極めること>
ドアは単なる活動主義者ではない。キリスト教の霊性の伝統に根ざしている。そのような霊性の遺産に対するドアの関心は、霊性の観点から見て非常に重要なテーマである祈り、聖書の黙想、貧しさ、単純さ、傾聴すること、友情等への度重なる言及でもわかるように、随所に見ることができる。ここではそのひとつ、「見極めること」への着目を取り上げる。神の恵みのわざ、摂理のわざ、聖霊のわざがどのように行われているかを「見極めること」は、霊性の形成にとって欠くことのできない意識であり営みである。ドアによると、キリスト教共同体の役目は、神の国がこの世に到来しているところを「見極めること」である。神の国がこの世に実現するためには、クリスチャンの直接行動も重要であるが、その一方でキリスト教共同体自身が、正義、安全、一致、調和等の価値の生きた証人になることも、同様に重要である。贖いは、教会の外のみでなく、教会自身の制度や共同体生活にも必要である(130頁)。
私たちは神の目的を推し量ることはできない。私たちにできることは、全幅の信頼をもって神に向くことである。しかしこれは何の疑問や問いかけをもたないことではない。「見極めること」が必要である。神の沈黙の中で何らかの意味やメッセージを探り求めないではいられない。摂理を信じることを通して、私たちは人生における意味を求め、見出す者とされる(225~226、241、253~254頁)。ドアは言う、「『見極める』とは、何よりも御霊によって私たちが、自分自身の最も深い部分に触れさせていただくことである」(226頁)。
⑤<祈り>から<貧しい者との連帯>への道
ドアは最後に祈りについて語る。私たちにとって最も根本的な祈りは、神に「懇願する祈り」である。絶望的な状況の中で神に懇願する私たちの祈りに対する神の答えは、ほとんどの場合、直接的で奇跡的な介入ではない。むしろ、その人自身に勇気と決意を与えることによって、その祈りは答えられる。神の摂理に関する正確な理解は、人々が自分の人生に責任をもち、社会の悪を克服するために働くようにその人を鼓舞する(252頁)。絶望的な状況の中でも、自由な心で祈る者とされる。これは神の恩寵の勝利だ(231頁)。懇願する祈りは、政治的回心から気をそらすものではなく、むしろそこへと促すための強力な手段となる。無気力と宿命論に挑戦し、貧しい者に神からの自信と使命感を与える(254頁)。
ドアによると、神からの自由を与えられた者の祈りは、貧しい者との連帯へと向かう。聖書の最も重要なテーマのひとつは、貧しい者に対する神の特別な関心と、抑圧を克服せよと彼らを呼ぶ神の招きである。クリスチャンは、世界中の貧しい者と真に連帯するように召されている(203頁)。貧しい者との連帯は、人々の今ある苦しみや葛藤を分かち合うこと以上のものである。それは彼らを絶望・自暴自棄から精神の自由へと導くことを目指す。それは、「神を賛美すること」によって実現する。ここに神を賛美することの重要性がある。神を心から賛美する時、私たちはもはや自分自身の絶望的状況に全面的には縛られておらず、本当の精神の自由を得る。そのようにして神は、私たちの願いに応えられる(248頁)。
(2)まとめ――「この世」に対して語る預言者と霊性
ドアによる霊性と正義に関する考察は、「この世」に対して語る預言者と霊性の問題を考えるに当たって、どのような意義を持つだろうか。
第一に、ドアの見解の最大の貢献は、「霊性の社会的広がり」という問題に関して、「心が変えられた者はこの世との関係も変えられる」というひとつの結論を出したことであろう。言い換えると、心を変えられた者(宗教的回心)こそ、世界を変える者(政治的回心)となる、ということである。これは、霊性の問題と社会正義の問題を二者択一の事柄として捉えるのではなく、両者の関係を不可分なものとして捉えたものである。神との人格的な出会いを経験し、神のものとされ、神とともに歩むという宗教的回心を経験した者、自分の心の最も深いところを神に触れられた者こそ、この世で苦悩し、疎外された者と苦しみを分かち合い、希望をもって神に祈ることができる。そのようなキリスト者の生き方の意義を、ドアは明らかにした。これは現実逃避、社会的無関心、宿命論に陥るキリスト者に対する、預言者的警告である。
第二に、キリスト者と社会正義の問題を、「バランスの取れた霊性」の中に位置づけたことである。真に霊的なキリスト者は、「初めに社会活動ありき」というかたちで活動(政治的回心)に駆り立てられるのではなく、宗教的回心、道徳的回心を伴うものである。この三者が伴うことが、キリスト者の真の霊性である。
おわりに
ピーターソンは、エリヤを初めとする預言者が教える信仰者の生き方について、示唆に富む洞察を行っている。ピーターソンによると、預言者が信仰者に対して語ることは、この世が教える生き方、この世が教える価値観と文化に決して支配されてはいけないということである。この世の富、この世の快楽、そしてこの世の神に対して徹底的に抵抗し、まことの神に対して忠実で従順な生き方をすることである。この世の価値観にどっぷり浸かった神の民の心を、神の義と聖さと愛へと向けるように語り続ける。「聖霊なる神は、繰り返し預言者を用いて、ご自身の民を彼らが慣れ親しんできた偽りと幻想から分離させ、この世が賞賛し報いとして与えるすべてのものをものともせずに、われらの主イエス・キリストの父なる神に対する単純な信仰と従順と礼拝へと民を引き戻す。エリヤと彼の数限りない預言者仲間は、数世紀にわたる時間的かつ世界的な広がりをもって、この世の道とイエスに従う道との違いを私たちが見極め、神の臨在の前にとどまり続けるように、私たちを訓練する」(Peterson、126頁)。
預言者という観点から霊性とその社会的広がりの問題を見る時、ひとつのことが明らかになる。それは、預言者が神の民とこの世に語ったメッセージの中心は、まことの神に立ち返ることであったということである。社会正義や奉仕のために行動することは、第一のメッセージではなかった。もちろん、行いのない信仰は死んだものである(ヤコブ2章17節)。ルターが言うように、「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕」である。しかし、これもルターが言うように、「愛が真実であるのは、信仰が真実な場合にである」(ルター『キリスト者の自由』、13、49頁)。
したがって、預言者に学ぶ霊性とは、私たちが、正しい聖書と神学の理解に基づいているが霊的いのちを失っている状態から、生ける神の臨在の前に立ち返ることである。社会構造を変えることが第一の目的ではなく、たとえ社会に問題があったとしても、本当の改革は私たちの心が神の臨在の前で変えられることから始まる。心の最も深いところで神に触れた者は、心の最も深いところで人と触れ合う者となる。これが「霊性の社会的広がり」のための、真の出発点だ。
参考文献
ルター『キリスト者の自由・聖書への序言』石原謙訳(岩波書店、1955年)
Brueggemann, Walter. The Creative Word: Canon as a Model for Biblical Education. Philadelphia: Fortress, 1982.
Dorr, Donal. Spirituality and Justice. Maryknoll, New York: Orbis Books, 1984.
Mounce, William D., ed. Mounce’s Complete Expository Dictionary of Old & New Testament Words. Grand Rapids, Michigan: Zondervan, 2006.
Peterson, Eugene H. The Jesus Way: A Conversation on the Ways that Jesus is the Way. Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2007.
(2010年2月発行No.39掲載)