はじめに
私の教育への関心は、中学生の時からです。友だちと一緒に勉強して、お互いに苦手の科目を教えていました。友だちがわからないというところを、一緒に考え、相手の考え方の穴を見つけ、補助線を引くようにそれを補ってあげて説明すると、友だちの眼が輝き、「わかった。」と言いました。その時に感じた喜びが教育への関心の第一歩でした。また世界には教育の機会が与えられない人々もいることに気がつき、そうした人々に仕えたいと思うようになりました。聖書翻訳宣教師への道に導かれていましたので、英語は必須と思いました。また翻訳した聖書が読まれるためには識字教育が必要と知らされていましたので、教育学が必要とわかっていました。またある程度の言語学も必要でした。こうした色々の面を習得するため東京学芸大学教育学部英語科に進学しました。それから教育には、ずっと関心をもってきました。
1 神のかたち
生きている動物であれば、どの動物でも種の繁栄の方向に本能的に行動します。そのプロセスの中である種のコミュニケーションが必要になります。しかし神のかたちに創造された人間には、動物とは異なる人間としての尊厳があります。DNA的には人間と猿などでは、ほぼ同じでも、決定的に異なるのは、人間が神のかたち(創世記1章26~27節)に創造されたことです。このことは、ことばを介してのコミュニケーション能力、すなわち話し・聞くという基本的なことが含まれています。考える力や理性が与えられています。また倫理的なことも含まれています。動物であれば本能的に行動するだけで、善悪の区別はありません。しかし人間は、倫理的な存在です。聞く・話すという能力から、読む・書くという能力、すなわち識字の能力が発達してきました。また神は私たちの心に永遠をおもう思いをお与えになりました。目の前にいない遠くにいる人、次の世代の人に、何かを伝えるには、文字を使ってコミュニケーションします。こうした人間の基本的なあり方を聖書が教えているように捉え、理解することが大切です。なんといっても人間ほど大人になるのに”教育”が必要な存在は少ないのではないでしょうか。以前は20歳で成人といわれていましたが、今は30歳が大人になる年齢ではないでしょうか。人生が長くなってきたので、あまり早くフルに働き始めると息切れがしてしまうからでしょうか。しかしいずれにしろ、人間は歩いたり、排泄の処理を自分でしたり、食べたり、飲んだりすることは比較的に早くできるようになりますが、その他のことは時間がかかります。聖書は人間が堕落して、神に背いたと教えます。神様の側で、帰る道を用意してくださいましたが、その道を通って神様に帰っても、罪の傷、罪の影響は人間の歩みの全ての領域に現れてきます。罪赦された罪人が、神様に近く歩み、主によって用いられるためには、長い間の教育・訓練・整えが必要です。
2 信仰の継承
教会の意味を考える時に、教会は信仰家庭の寄り集まりであるという理解が大切だと思います。教会の会堂内で行われる活動だけが、教会の活動であるわけではありません。むしろ教会堂の外で、すなわち職場や地域や学校での信仰者の営みが教会の大切な部分です。その中でも、家庭をとおして脈々と流れる流れに注目する必要があります。アメリカに留学した時に、感じたのはこの点でした。普段着を着たキリスト教と感じました。すなわち、信仰箇条だけでなく、信仰が文化をまとっているのです。たとえば、十二月にはいるとどこの家でも、クリスマスクッキーを多く焼きます。クリスマス前に、郵便配達の人、地域のおまわりさん、入院している人などに配ります。そのクッキーを焼く時に、お母さんと娘たちは、色々な話をします。それこそ色々な話です。そのような親子の会話の中で、どのように物事を考えるか、決断するか、人との信頼関係をどのように築くのかなどが含まれるでしょう。信仰が、生活化してくるのです。
日本では、四代目、五代目のクリスチャンは珍しい存在です。百年以上の伝統のある教会は、四代目や五代目のクリスチャンが存在しており、教会は形を保っていますが、檀家的な家の宗教となっているケースがあるのではないでしょうか。信仰家庭の形成が弱かったからではないでしょうか。一昨年に、プロテスタント宣教百五十周年を祝いましたが、日本の教会の特色の一つは、その歴史のどこを取っても金太郎飴のように、教会が第一世代すなわち、改宗者で満ちていたということではないでしょうか。どのように生きるのか?信仰を生活に生かすにはどのような工夫が必要か?というような側面が弱かったのです。日本のカトリック教会では、信仰と生活の分離、教会と社会の分離が日本宣教に立ちはだかっている大きな課題と受け止め、その克服に取り組んでいます。
日本の教会は、優れて伝道的な教会でした。未信の人々を救いに導くことに力を注いできました。そうでなければいつでも改宗者で満ちているということはないからです。そうした教会の伝道活動に忙しく、信仰の生活化が弱くなったのではないでしょうか。クリスマスの時期には、多くのクリスチャンにとって、教会での諸行事で忙しく、家族でイエス様の誕生をしみじみと味わうゆとりはあまりないのではないでしょうか。教会の会員であるとか、家の宗教はキリスト教であるとか、洗礼を受けているというだけでなく、神様に信頼して、信仰に生きるキリストに従うキリスト者が、どの世代でも生き生きと歩んでいるような姿は、広い意味でも教会教育無しでは考えられません。すでに述べましたように、教会教育には、家庭教育も含まれます。また信仰を知的に継承するだけでなく、情熱を持って主にお従いしていくためには、知情意すべてにおける絶えざるリバイバルが必要でしょう。
私のいとこ夫婦にルーテル教会のクリスチャンがいます。彼らはあまり伝道しません。若い頃はその家の壁に母教会の伝道集会のポスターを貼らせてもらいにいき、「伝道熱心ね。」などといわれると悪い気はしませんでした。アメリカ留学のおり、ウィクリフの志願者の中で家族関係が極めて良い二組の家族がいました。知り合いになり、この二組ともルーテル教会の会員であることがわかりました。一年ほどの滞在期間中、ルーテル教会に出席することにしました。そこでは、驚いたことに伝道的な集会はいっさいありません。ほとんどがドイツ系の人々でした。アメリカにわたってきた時には数百人だったのが、二百年ほどで三百万人に増えてきました。主として親から子へと伝わった信仰継承によるもののようでした。教育に力を入れていることは随所に見ることができました。
3 教育の意味
人生の土台を築くには、教育がかかせません。家庭における基礎的な人生に必要なスキルの習得から始まり、人生への取り組み方、人生そのものをどう考えるのかが自然と子どもの中に浸透します。徳目といわれる倫理的な面、正直であること、うそをついてはいけないこと、間違ったら素直にあやまること、人に感謝の思いを伝えること、ことばや態度で愛を表現すること、簡単にあきらめないで、忍耐してやってみること、謙遜に神の前に自分の姿を認めることなど、一度言って終わりではありません。繰り返しの中で、身に付いていきます。あるいは親の姿を見て、人格的な影響を受けます。人格の形成には、時間がかかります。しかし、日本の教会には、いつも第一世代の改宗者で満ちていたという弱さがあれば、その人々はクリスチャンの親のモデルが無いという決定的なマイナス面をもっています。夫婦のあり方、親と子のあり方、家族のあり方、この世に対する関係の仕方、福音の分かち合いの仕方などについて親のすることを見ていないわけです。何を大切とするか、どこに価値をおくかが、聖書に基づき、その家の伝統、教会の伝統、民族の伝統の中で培われていきますが、その面で受け取ることが少ないといえます。
イエズス会などカトリックの修道会では、フォーメーション(養成、育成)に十年ほどかけます。そのために優れた教育者の先輩を配置しています。次世代の人材を養成するのに力を入れています。それぞれの修道会には、創立者のカリスマ(霊性の特色)があります。祈りの仕方、導きの求め方、毎日の生活の仕方、奉仕の仕方や種類に違いがあります。その特色ある霊性、信仰の表現の仕方、奉仕の仕方によって全体の教会に仕えようとします。したがって、養成が大切になってきます。四年間の哲学や人間についての学び、三年間の神学教育、それに実践的な実習の期間がありますが、その間ずっと共同生活により基礎的な人格や生活態度などが身に付いていきます。
ひるがえって、日本の教会では伝道に力を入れ、洗礼までは一生懸命ですが、その後は奉仕をしながら学んでいくのではないでしょうか。すでに述べたような人格の形成、基本的な霊性、イエス様に似るものとされる成長のプランが弱いのではないでしょうか。
4 公教育にまかせすぎ
日本の教会は、近代国家として日本が西欧列強に追いつき、仲間に入るという強烈なエネルギーのなかで、あまりそのような国のあり方に疑問を持たず、一緒に励んできました。国語としての標準語の推進は、富国強兵には必須のことでしたが、それは地方の各種の方言を駆逐することであり、アイヌ民族、朝鮮民族、沖縄民族などの少数民族のことばや文化を奪うことであったのです。聖書の価値観をもって日本の国の立ち上げに参加するのでなく、すなわち日本という国にあって異なる価値観で生きている教会という共同体が貢献するのではなく、世の人々と同じように励んでしまったのではないでしょうか。したがって、教育の面でも公教育に任せすぎたのではないでしょうか。その時代に日本の国が必要な人材をうみだそうと公教育は目指します。しかし聖書の価値観で貢献するためには、公教育にまかせすぎてはいけないと思います。
これは生活の全分野でいえることです。年金制度や保険制度の崩壊は大きなチャンスです。今までは公の制度に任せてきたのが、お互いに助け合うこと、すなわちボランティアとして、血縁関係を超えて助け合うことが大切です。そのためには、まずクリスチャン同士が助け合い、その影響が回りに及ぼされる必要があります。またクリスチャン家庭も、教育を教会にまかせすぎです。家での親としての責任を放棄して、教会学校に任せるのはきわめて危険です。教会学校は、イギリスで二百年ほど前にスタートしました。貧しい層の家庭の子どもたちに教育を提供するのが目的でした。
結婚する人への取り組み、夫婦のありかたや家庭礼拝の持ち方、親となる人への取り組み、すなわち子育てのあり方、クリスチャンホーム同士の交わりの仕方などが教会で教えられなければなりません。いったりきたり、子どもがあっちの家に泊まり、こっちの家に泊まり、仲良くなることが大切です。すなわち家庭を治める、教える、整えることが基礎となります。
5 各教派、宣教団体の取り組み
アメリカでは、ルーテル派、長老派、バプテスト派などがそれぞれ多くの教会付属の学校を運営しています。そのためには、教員養成の大学も多く設立され、運営されています。カリキュラムを考え、教科書を出版する部門も大きいのがあります。またここ数十年のあいだに、ホームスクーリングの流れが出てきました。教会の運営する小学校、中学校、高等学校が無い教派の人々が、公教育にあきたりず、家庭で教えはじめました。そのための教科書も多く出版されています。カトリック教会は、歴史的に学校教育に力を入れてきました。教育修道会も多くあります。サレジオ会は、イタリアで、ドン・ボスコがスタートさせましたが、小学校、中学校、高等学校のレベルの子どもたちの教育を使命としています。各種の修道会で教育事業を展開していますが、使徒的使命として受け止めています。イエズス会は、大学レベルでの教育を使命としています。
宣教団体の中でも、子女教育は大きな課題です。国際ウィクリフには、七千名ほどの宣教師がいますが、子どもは一万人を超えています。五百名ほどの教育宣教師がいます。全世界で七十ほどの学校を運営しています。すでに七十七年の歴史を刻んできていますが、今のリーダーの中にはウィクリフの宣教師の子どもであった人が少なからず存在しています。欧米では、その家系から宣教師や牧師を輩出している例があります。また軍人を輩出している家系、学者を輩出している家系などもあります。その家の伝統が生きています。これは日本でも同じような伝統が流れているようです。クリスチャン家庭もこのようなよい伝統に見習いたいものです。
フィリピンでは、キリスト教は家の宗教の側面もあります。四百年間ずっとカトリック信仰で生きてきています。生まれたときの洗礼、結婚式、葬式と生涯で三回だけ教会に行く人も多くいます。しかし同時にすべての公立学校にカテキスト(宗教教育の免許を持っていて、聖書を教える教師)を配置し、カトリック教会が給与を支払っています。宗教教育に力を入れています。また自覚的な信仰生活をするようなさまざまな取り組みがあります。家族関係が深く、友だちを大切にするので、人間関係が深いです。フィリピン式もてなしの精神が国民的な伝統です。しかしそれはイエス様のケア命令(マタイ25章)の実践であるのです。しょっちゅう集まってパーティーをやり、お茶を飲んだり、食事をしたりしています。自然と伝道が進んでいきます。人と人とのつながりの中で、子どもたちは多くのことを学んでいきます。あるフィリピンの牧師が言っていました。「日本人は、ご迷惑病にかかっているのでは。ご迷惑になると考えて、自己規制をして、声をかける前に、行動をやめてしまうようだ。」これはクリスチャンの間でもあるようです。クリスチャン家庭同士の行ったり来たりが少なく、人間関係が希薄です。価値観が伝わる暇もないようです。日本の教会の伝統であった伝道力も下がっています。豊かな人間関係の中から、伝道力や次世代への伝播力が高まるのではないでしょうか。
(2011年9月発行No.41掲載)