はじめに(二つの目標)
私には常に祈っている自分のための3つの祈祷課題があります。一つは「神様、どうか私を説教のプロフェッショナルにして下さい」、二つ目は、「神様、どうか私を祈りのプロフェッショナルにして下さい」、そして三つ目が「神様、どうか私を児童伝道のプロフェッショナルにして下さい」、という祈りです。牧会に携わる者として御言葉を取り次ぐ説教は常に磨き整え少しでも良いものをと願います。また私たちに与えられた最高の祝福である祈りは、公的な祈りも私的な祈りも常に最高の祈り手でありたいと願います。そして19歳の頃から主に召されて与えられた児童伝道の働きは、私自身のライフワークとして生涯握り続け成し続けて行きたいと願っています。
そんな中、今回の教育理念の原稿の依頼を受けまして、やや愕然としながら思ったのは「自分の教育理念って何だろうか?」という根本的な疑問でした。ライフワークと言いながらも自分の中にある児童伝道の柱は何か、何を目標にどのように働かせていただいているのか、総括して考えたことがなかったのです。今回良い機会をいただいたので、自分のさせていただいたことを振り返り、またこれからのビジョンを考えながら、自分に与えられている教育理念をまとめたいと思います。
今現在与えられている那覇バプテスト教会において、子どもたちについて常に教会として取り組みたい明確な2つの目標があります。一つは子どもたちが「教会から離れないようにする」ということ。そしてもう一つが子どもたちを「役に立つ者とする」ことです。これは教育理念という言葉で現わすのがふさわしいのかは分かりませんが、「教会に行っている子は違う!」と人々が評価する存在に無理せず、自然になってほしいのが願いです。
1 教会から離れない者とする
まず、第一の「教会から離れないようにする」ですが、子どもたちが教会から最も離れる時期は小学校上級生から中学生になった時でしょう。環境の変化、思春期になること、受験やお稽古事、家庭の反対、子どもたちの内的外的変化が著しいこの時期が最も大切な時だと思いますが、これらがそのまま教会から離れていく理由になっています。優先順位の中で教会生活、礼拝、信仰が低いことが分かります。また、自分の居場所が教会内に確立されていないということも分かります。そんな中で聖書が語る2つのメッセージが子どもたちにしっかりと与えられるようにと願います。それは「教会はすばらしい」ということと「あなたは愛されている」ということです。もしこの言葉をしっかりと受け取りアーメンと告白できるならば、その子は決して教会からから離れることはないと信じています。また、ただ言葉でそれを聞くだけではなく実際の体験として、教会のすばらしさを知ることがどんなに大切でしょう。命あふれる礼拝、自分の人生に受肉する御言葉、力あり喜びあふれる賛美、救いの体験と伝道の喜び、兄弟姉妹が共に仕え祈り支え合う諸活動。決して世のどんな集まりからも得ることが出来ない、主にある命あふれる教会が子どもたちの中に形作られることこそが教会教育の真髄です。
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昨年今年と2回にわたり被災地である宮城県へと訪問しました。1回目は小学3~6年生の女の子8名と一緒に「被災地に賛美の花束を届けよう」というテーマで、教会や幼稚園、仮設住宅などで賛美と子どもたちの証しを致しました。2回目は今年の7月末に中高生の男子5名と「被災地に笑顔の花束を届けよう」というテーマで、施設や仮設住宅などで漫才やスキット、賛美、などをしてきました。選ばれた特別なメンバーにとってはすばらしい体験となりますが、その準備段階でもバザーを開いたり、ドリンク販売、献金箱を作ってアピールするなど、行かないメンバーがこのために祈り支えました。行く前に派遣式、帰ってからは報告会、それぞれが全体の働きです。小さな働きですが、そこに祈りと賛美と御言葉があり、教会のすばらしさが確認され、それぞれの存在の価値と意義が語られ、一人ひとりが輝きました。このような働きのくり返しが子どもたちに居場所を作り、子どもたちを教会につなげていくと思うのです。
2 役に立つ者とする
もう一つの目標「役に立つ者とする」は別の言葉で言うならば、弟子として訓練し整えるといえます。エペソ人への手紙4章12節に「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建てあげるため」とあります。最初は整っていない不完全な者がキリストの召しと訓練によって整えられ、奉仕が出来るようになり、やがてはキリストのからだを建てあげることが出来るようにまでなるのです。
私にはこの言葉から連想される二人の聖書人物がおります。一人は福音書著者マルコであり、もう一人はピレモンの手紙に出て来るオネシモです。以前聞いた話によると、マルコもオネシモも名前の意味が同じで「役に立つ者」とか「有益な者」という意味だそうです。ところが二人ともかつてはその名前が皮肉に聞こえるような者たちでした。マルコは若くして主の弟子になりましたが、パウロとの伝道旅行の途中で帰ってしまい、後のパウロとバルナバのいさかいの原因となります。またオネシモはピレモンの家の奴隷でしたが、主人の財産を盗み逃げ出してしまいます。使えない役に立たない者、と言われそうな者たちでした。しかしマルコは後に福音書を記すほどの人物になり、オネシモはパウロのとりなしの手紙を主人のもとに届けて赦され、真に有益な僕となります。テモテの手紙第Ⅱの中でパウロはマルコについてこう語ります。「マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」(Ⅱテモテ4章11節)同様にピレモンの手紙の中でオネシモをパウロは「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。」(ピレモン11節)
最初から役に立つ人など一人もいません。誰もが最初は知らない、分からない、出来ないのです。子どもたちを整えること、主のお役に立つ者、世のお役に立つ者として整え続けていくことが、教育であると思うのです。
おわりに(子ども礼拝)
私たちの教会で行われている子ども礼拝は通常の教会学校とは趣が違います。基本はタテ割り4グループによるゲームや賛美、暗唱聖句等で競い合うスタイルの集会で、下は1歳児から上は高校生までが一緒に過ごします。3か月スパンのペナントレース方式で、3か月に一回順位を競い、優勝すると豪華な景品をもらえるのです。子どもたちもスタッフもこのゴールに向かって一丸となりがんばります。また3か月ごとにグループのメンバーは完全に変わります。実はこの礼拝のスタイルこそが自分の中にある子どもたちが教会に留まり、整えられる、という働きの一つの答えです。年齢差10歳以上のグループの中で、下の者が上に学び、上の者が育てるのです。上級生は模範であろうとするために自らを整えます。また下の学年の子も、さらに年少の子たちを自然に見るのです。この子たちが成長して先に紹介した被災地の奉仕に派遣されたのです。
もちろん課題は多く、まだまだ主のご期待に応えられない者ですが、一人でも多くの子どもたちを主のお役に立つ者に整えたいと願っております。
(2014年9月発行No.45掲載)