「神さまを信じたい気もするけれど、クリスチャンになると真面目にならなきゃいけない気がして、ちょっと怖い。」担任していた生徒が以前そう話してくれたことがあり、なるほど…と思いました。
私は小学校3年生の頃、母に連れられて行った教会学校で、初めてイエスさまのお話を聞きました。一方、ミッションスクールに通う生徒の多くは、入学して生まれて初めて聖書を手にし、賛美歌を歌い、礼拝に参加します。(もちろん中にはご両親や祖父母がクリスチャンである生徒もいますが。)つまり、彼らが出会うのは、毎日の学校礼拝で歌う賛美歌、主の祈り、礼拝のメッセージ、そしてありのままのクリスチャン教師です。そして彼らが地域の教会に行くきっかけとなるのは、学期に1度提出義務のある礼拝レポートです。
先日、6年間担任していた卒業生2人が母校に遊びに来ました。卒業生たちがまるで故郷に帰ってきたかのような表情で担任をはじめ教科や部活動でお世話になった先生たちと談笑する姿を目にすると、心がぽかぽかとあたたかくなります。
卒業して何年か経って初めて、ミッションスクールの本質を知るようになる生徒も多いようです。いつの間にか心に種まきされていた聖書のみことば、一人ひとりが神さまに創造されたかけがえのない存在であるという共通の感覚、その雰囲気を思い出すようです。そんな姿を見ると、教会こそ私たち人間の“たましいの故郷”であり、教会こそ、イエス様が言われた“子どもたちが来るべき場所”であることを思わずにはいられません。
私自身が信仰告白をするに至った経緯を思い返してみると、初めて教会に行ったときに歓迎してもらってから、毎週の教会学校での同世代の子どもたちとの関わり合いやファミリーキャンプ、そして教会の野球チーム、他教会の同世代の子どもたちとのキャンプや集会、牧師先生夫妻を含めた教会学校の先生方との継続的な交わりなどが数多く思い出されます。結婚して教会が変わっても、お世話になった牧師先生ご夫妻、教会学校の先生方、教会学校で一緒に育った友だち、そしていつも祈ってくれていた教会の方たちは私にとってかけがえのない神の家族です。
中高一貫教育をしている私の勤める学校では高校受験はありませんが、中学に入学したばかりの頃はまだまだあどけなかった彼らも、高校3年生にもなると自我が確立するようになり、高校卒業後の進路を決める大きな節目を迎えます。そのときこそ、1人ひとりと正面から関わるチャンスです。そのときに物を言うのは、それまでに築いてきた関係性です。一緒に時間を過ごしてきたからこそ言えることがあり、聞けることがあります。教会も学校も、根本は同じであると思います。いくら福音を伝えたいと思っても、心が開いていなければ響いていきません。まずは子どもたちを受け入れること、そして一緒に遊ぶ、一緒に食べる、一緒に祈る、一緒に奉仕するなどの時間があってこそ、心の垣根が外されて、聖書のみことばがすっと心に入っていくのではないかと思うのです。
特に思春期を迎えている中高生は、親との関係や日曜日の部活動、恋愛、進路選択など、内面ではいろいろな思いを抱えています。学校からの課題を受け、初めて教会に足を踏み入れる子どもたちは、冒頭にも書いたように、多少の緊張と心の垣根を持って教会に来るはずです。しかし、イエスさまが下さった救いは広く、豊かなものです。だからこそ、1人のたましいが教会に導かれたことをさまざまな教会員が歓迎し、その存在を心から喜ぶこと、祈りつつ、それぞれの賜物にあった方法で関わりを持っていくことが、蒔かれたみことばの種が芽を出し、やがて信仰告白に至るまでの“大切な畑作り”になるのではないかと思います。それぞれの性格や賜物に応じて、名前を覚えて声をかけたり、誕生日カードを送ったり、子どものプログラムのときにおやつの差し入れをしたり、受験を迎えている子どもと一緒に祈りのときをもったりすることで、十分伝わるはずです。私自身、十分な準備ができず、もうやめようと思ったことも何度かありますが、“子どもたちと一緒に時間を過ごし、子どもたちに福音を伝えていく”ことが自分の受けた恵みを後の世代に継いでいくことにつながればという願いから、CS教師の奉仕を続けています。
1人の子どもが救われるために、神さまが小さな私たち1人ひとりを用いて下さるとはなんと驚くべきことでしょうか。そして1人の子どもが救われることによって人生の中で働く神様のみわざは、どれほど大きく、豊かな祝福にあふれているでしょうか。子どもたちへの伝道の働きは、神様から託されている祝福の基の働きです。みことばのとおりに子どもたちを迎える教会、たましいの故郷でありたいと願っています。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」マルコ10章14節
(2014年1月発行No.44掲載)