人はどの瞬間から自分が「親」になったという実感を持つのでしょう。妊娠が分かった時でしょうか。胎動を感じたときでしょうか。生まれてきたわが子の顔を初めて見た時でしょうか。「パパ」「ママ」と子どもが自分に歩み寄ってきた時でしょうか。子どもが生まれてくるということは、当たり前のようで、決して当たり前のことではありません。しかも子どもが生まれてきたからといって、自動的に「親」になるわけではありません。
動物の世界では、親は誰から教わったわけでもないのに子どもの世話をし、子育てをしていきます。それは彼らの中に備わった本能です。しかし、残念ながら人間の世界ではそう簡単にいきません。子育ては大変な仕事であり、多くの「親」たちが悩み、苦しみ、試行錯誤しながらその仕事をしています。
私たちが人間である以上、完璧な親にはなれません。間違いも犯すし、感情的になって大声をあげてしまうこともあります。故意ではなくても、子どもの心を傷つけてしまうこともあります。「子育ては戦いだ」と言う人もいますが、まさにそうです。子育ては子どもとの戦いでもあるし、自分自身との戦いでもあります。そして親たちは、何が「正しい子育て」なのか迷いながら、日々戦っているのです。
児童虐待
現代の日本社会で、児童虐待は大きな問題となっており、報告されている件数は年々増加しています。児童虐待とは、保護者 (養育者)の行為で、子どもの心身を傷つけ、健やかな成長と発達を損なうものを指します。虐待には身体的虐待、性的虐待、心理的虐待、ネグレクトの4種類があります。「そんなつもりではなかった」としても、「しつけの一環」であっても、子どもにとって有害ならば、それは虐待とされます。テレビや新聞で児童虐待のニュースを聞くたびに心を痛められる方も多いことでしょう。あるいは、なぜ自分の子どもにあんなにヒドイことができるのだろうかと疑問に思う方もおられるかもしれません。しかし、虐待した親を非難し、責め立てても問題は解決しないのです。
もちろん中には子どもをおもちゃのように扱い、自分の欲望を満たすために利用している親もいます。しかし、大半の親たちは虐待をしようと思って子どもを産み、育ててきたわけではありません。「親」になることの理想と現実のギャップが、彼・彼女たちを追い詰めて、虐待へと走らせることが多いのです。子育てという終わりのない戦いの中で、疲れ切って、孤独で、もうどこにも出口がないように思えてしまう、そんな経験をしたことのある人ならば、思わず虐待してしまった親の気持ちがわかるのではないでしょうか。
だからといって、もちろん虐待が正当化されるものではありません。虐待は、虐待行為そのものが子どもの心身を傷つけるばかりではなく、その行為がなくなってもなお、PTSDやさまざまな障害として現れ、子どものその後の人生を生きにくいものにしてしまいます。
さまざまな虐待
虐待の中でも、「身体的虐待」は比較的発見されやすいものです。体にあざがあったり、不自然なケガが多かったりと、身体的な特徴が見られるからです。しかし、性的虐待、心理的虐待はなかなか見抜くことが難しいものです。特に心理的虐待は、言葉の暴力や精神的に過干渉であったり、逆に子どもに無関心であったり、無視や拒絶するといった行為を指しますが、親のほうにその自覚が全く無く行っている場合も多いのです。家の中と外では親の態度が違う場合も多く、なかなか必要な援助の手が差し伸べられていないのが現状です。
ネグレクトは養育の怠慢、放棄を指し、子どもにとって必要なケアを与えない行為のことです。食事を十分に与えない、お風呂や洗濯など、子どもの体を衛生的に保とうとしない、子どもの安全を守るために必要な監視をしないなどです。また、大人の都合で必要な健診、予防注射、 医療、教育などを受けさせないなどもこれにあたります。
このネグレクトは子どもの様子から見抜くことが可能です。例えば、おやつなどを与えるとすべて独り占めしようとしたり、隠しながら食べたり、むさぼり食うなど、普通では考えられないような食べ方をする場合があります。同じ服を着ていて、洗濯されている様子がない、お風呂にもあまり入っていない、爪も伸びっぱなしであるなど、あまり衛生的ではない場合も要注意です。年齢に対しての体の発育不良や虫歯の治療がきちんとなされていない、病気になっても病院に連れて行ってもらえないなども、ネグレクトが疑われます。
あるいは、ネグレクトをされて育ってきている子どもは、他人とうまく関わることができません。他の子どもに対して暴力的であったり、挑発的であったり、大人に異常なくらいベタベタする、一部の大人を独占しようとする、一人で孤立してしまうなど、他者と友好的な関係を作ることが難しいのです。あるいは自傷行為や赤ちゃん返り(退行)、家に帰りたがらないなどの行動も見られます。もちろんこれらの特徴があったからといって、すぐにその子が虐待されていると判断することは早計です。しかし、疑いの目を持つことは、虐待の早期発見、早期介入のために大事なことです。
虐待を受けた子どもがさらされる危険
では虐待を受けた子どもは、どのような危険性にさらされているのでしょうか。生命の危険はもちろんのこと、虐待による後遺症や成長障害もありうるし、知的発達が阻害される、精神的に障害を負う、といった危険性もあります。あるいは、虐待を受けた子どもは力の上下関係でしか人と関わりを持つことができず、いじめられやすい、あるいは暴力的にふるまうなど、人間関係の形成に課題を持っている場合も多いです。そして、感情のコントロールが難しく、自己卑下、自己嫌悪など自己評価が低い、不安や抑うつなどのこころの症状が見られることも多いです。虐待を受けた期間が長ければ長いほど、これらの危険性は高くなっていきます。
虐待を受けている子どもにとって、毎日が全く予想のつかない不安定な環境です。いつ、どんな手が飛んでくるかわからず、安心することができません。そして、自分が大切な存在であるという感覚が持てません。「自分は必要のない人間である」「自分が悪いからこのようなことになっているのだ」という罪悪感を持つことも多いです。「親のことは大好き、でも自分にとって嫌なことをされる、ということは、自分がダメな人間だからなのだ」と親の行為を正当化するのです。あるいは、「誰も助けてくれない」「他人は信じられない」「こんなことはたいしたことではない」と否認するなど、「しゃべるな」「信じるな」「感じるな」というルールを身につけてしまいます。その結果、虐待を受けた子どもたちは、安心感や他者への信頼感を欠いたまま育ってしまうのです。
周囲のできること
それでは、虐待されていると思われる子どもに対して、周りの大人ができることは何でしょうか?もしそのような子どもが教会や教会学校に来たら、どのようにしたらいいのでしょうか?まず考えるべきことは、福祉事務所か児童相談所への通告です。児童虐待防止法では国民すべてに通告義務があると定めており、その際、虐待されているという明確な証拠がなくても通告できます。子どもの心身の安全確保が最優先です。
子どもとの関わりを持ち続けることは、子どもにとってとても大切な経験となります。子どもの話に耳を傾け、関心を持ち続け、その子どもに「自分も大切な人間なのだ」ということを知ってもらうことが重要なのです。それによって、その子が「信頼できる大人がいる」と体感することもできます。
子どもの話を聞く際、「親」を悪者に仕立てたり、「とんでもない家族ね」「ひどい事されたのね」などと言ったりして、子どもの家族や経験を否定しないことです。どんなにひどい親だと思われても、その子どもにとっては「かけがえのない大切な親」である場合が多いからです。ただし、「自分が悪い子だから」という間違った罪悪感は正してあげる必要があります。
また、子どもの心に押し込まれている感情が様々な形で出てくることがあります。他の子どもに対して暴力的にふるまったり、感情を爆発させたりする場合には、叱るだけでなく、暴力ではない問題解決方法や感情のコントロ―ル方法を教える必要もあるでしょう。あるいは、肯定的で好ましい体験をさせてあげることも大切です。「やればできる」という自信をつけさせるような課題を与えたり、励ましてあげたりすることで、「自分は愛される価値のある、大切な存在だ」と子ども自身が思えるように支えていきます。
そして、親に対しての関わりを保っていくことです。虐待をする親たち自身も、自分が大切な存在であると感じられずに育ってきている場合が多くあります。虐待をしている自分を恥じている部分もあるでしょう。ですから、虐待をしてしまう自分の気持ちを理解し、支えてくれる人が必要なのです。「一人で頑張らなくていいですよ。何か助けてあげられることはありませんか」と声をかけていただきたいと思います。もちろん拒否されることもあるでしょう。しかし、その一言で救われる人も大勢いるのです。
最後に、子どもの可能性を信じてあげてください。虐待されて育ったからといって、その子どもの一生はもうお先真っ暗、ではありません。自分のことを信じ、心から大切にしてくれる人と出会う時、子どもはまた健全な発育をし始め、新しい未来が開けてくるのですから。
(2014年9月発行No.45掲載)