はじめに
この原稿を読者が読む頃、あの東日本大震災の3.11から一年が過ぎているのではないかと思われます。
震災に関して「1000年に一度」、あるいは「想定外」「絆」「がんばれ東北」「原発事故」などという言葉がこの一年、テレビや新聞をにぎわしていました。では、私たち教会、あるいはキリスト者はどのような言葉が浮かんでいるのでしょうか。みなさんはどのような言葉がこの一年浮かんでいたでしょうか。そして、私個人はと振り返ると、月並みかと思いますが「沈黙」あるいは「言葉を失う」ということでした。そのことの理由については後で述べましょう。
紹介が後になりましたが、私は北関東を中心に展開している福音伝道教団という教団の牧師と信徒の有志で組織されている「イザヤ58ネット」という小さな震災支援のためのチームの一人でネットの代表を務めております。多くのキリスト教団体や地域の教会が今回の震災の支援活動を立ち上げ、被災地に入っていっていきました。おそらく、その対応は素早かったと思います。
私たちはどうであったかといいますと、3月に続々と震災に関するキリスト教団体から情報が入る中、何とかしたいという思いがあっても、その受け皿となる組織が教団にあるわけでもなく、ぞれぞれの教会が義援金の箱を教会に置く程度の対応でありました。しかし、「これでいいのか」「何かしなくては」という声が出始め、そしてそのようなことを伝え聞いた何人かの牧師が、支援組織に参加しようということになりました。そのような考えを持つ牧師と信徒など4名が発起人となり、イザヤ58ネットをスタートさせました。名前の由来は、イザヤ書58章からでした。
しかし、現実は、大きな支援団体のボランティアの参加期間が二週間ということで、牧師が日曜を2回も抜けたり、また一般信徒も2週間も仕事を休むという環境は、今の日本ではなかなかできない状況です。
そのような中で、仙台バプテスト神学校の校長の森谷先生に被災地と支援の状況を問い合わせたところ、自分たちのところでも仙台SBSというネットを起ち上げて支援活動をしているということを聞き、そこを窓口として、また被災地へのベースキャンプとして活動することになりました。
双方向の支援活動
このイザヤ58ネットの名前と関連があるのですが、私たちは単に「私助ける人、あなた支援を受ける人」という片方向の支援関係を持つのではなく、支援を通して、自らも成長させていただくということを設立の基本理念におきました。この支援活動に関わることを通して、自分の教団の後輩の先生や青年が関わることを通して、リーダーシップや神と人に仕えることの具体的ステージの場で成長するいい機会となるのではと考えたのです。自分が何かをするというより、チームを編成し、そこから「小さな教会でとても…」という限界を超えて、何らかの支援活動をすることができることを期待したのです。イザヤ58という名前もイザヤ書58章10節からつけました。
飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、
あなたの光は、やみの中に輝き上り、
あなたの暗やみは、真昼のようになる。
「他者の必要に顧みることを通して、自らが満たされる経験をする」ということを活動理念としてあげました。
さらに、以下の活動方針をかかげていきました。これは、すぐにできたものではなく、仙台SBSと協力して支援活動をする中で得た体験的なことからきたものです。
1.身の丈に合った支援活動
2.被災者の自立を妨げない支援
3.被災地のニードにあった支援
4.支援の行き届かない場所に支援を届かせる。
5.行政と被災者たちとのパイプ役を務める。
というものでした。
1.身の丈に合った支援活動とは
自分たちができることと、できないことを十分に理解し、受け入れて活動をするということです。
2.被災者の自立を妨げない支援
支援活動をして、現実に起きたこととして「支援者の自己満足の支援」が、かえって被災者間の人間関係を壊すことがあるということです。ある避難所にある団体が、被災者たちに現金を支援したのです。しかし、それが他の避難所に知ることとなり、受け取れなかった避難所の人たちが「なぜ、俺たちがもらえなかった」と避難所の世話人に食ってかかり、リーダーが悪いからだとつるし上げられ、世話人の方がひどく傷ついた事件があったそうです。一方的な支援では、かえって被災者たちのコミュニティーを壊すことになるのです。
3.被災者のニードにあった支援
支援の平等性が、かえって支援の格差を生む結果を招いていました。たとえば、当初の混乱期にあったことですが、公的機関が支援物資を支給する時、平等に物資を渡すということにこだわり、夫婦二人分でペットボトル2本、缶詰2個ということで、同じ個数を、子どもを入れて家族5人にペットボトル2本、缶詰2個を配るようなことがあり、それは地域の避難所でも起きて、避難所によって物資が行き届いている所と、乏しい所があるということがおきました。私たちは、あらかじめ仙台SBSが避難所や地域コミュニティーを訪問し、何が足りず、何が早急に必要なのか、たとえば衣類でもサイズ、どのような衣類なのかを聞いて、それを次回来る時に手当てしていく方法をとりました。
4.支援の届かない、支援の隙間となっている地域を優先して支援する
当初、私たちは東松島から始まり、石巻、南三陸町を支援地域として活動しました。特に、南三陸町の場合、リアス式海岸に押し寄せた津波は5キロ先の山間の谷間にまで押し寄せて来ました。山の斜面に漁船がへばりつくように横たわっていたり、車が山の岩にひっかかっている状況です。
海に近い比較的平らな地域は、歴史の教科書にある第二次世界大戦のB-29の爆撃にあった東京の焼け野原を連想させました。そのような地域には、家は一軒もありません。しかし、波の直撃を受けず、あるいは、家の一部の損壊ですんだ地域もあります。しかし、それが深刻な問題をもたらします。多くの支援団体や公的支援組織は避難所に優先的に支援物資などを送りますが、在宅被災者(家の全壊しないで、家になんとか住める)には支援はいきません。東松島、石巻、南三陸町で、そのような地域の被災者たちが異口同音にいうことは、なまじ家が半壊ですんだため、かえって食べ物がなく、一週間何も支援らしい支援がなかったとことです。私たちは、そのような地域を人づてに聞いて、支援活動をしていきました。
5.行政と被災者たちとのパイプ役を務める
南三陸町で画期的なことは、キリスト教系の様々な支援グループが、連絡ネットワークを形成し、そのネットワークの中心的活動をしている仙台周辺の幾人かの牧師が行政にすぐ連絡をとり、関係を持ったことです。
南三陸町では、被災者支援をしている町の役場の職員も実は被災者なのです。町の行政が壊滅的に被害を受け、町の職員も亡くなったりしています。被災者たちは、様々な支援を町に要求してきます。しかし、徐々に他の市町村からの応援が行き届いてきていますが、福祉の専門の職員が津波で亡くなり、同じ町の土木の担当だった人が代わりに担当する事態となり、当然、専門知識の乏しいため福祉関係の支援が十分な対応ができなくなり、被災者からの不満が起きてきます。
町の職員も被災者でありながら行政として精一杯しているのですが、行き届きません。彼らもストレスの中にいるのです。現在はいくらか改善されていますが、昨年夏過ぎまでは被災者対策の40%が、私たちのようなボランティア支援団体頼みの状態でした。
そのような中で、彼らも、物資の支援がある程度行き届いた現在、大きな課題は、自殺者対策、孤独死対策です。阪神、淡路大震災、その他の国の震災で統計的にはっきり出ていることは、震災など災害で亡くなった人の数の約2倍から3倍の数の人が震災後5年以内に亡くなるという数値がでているそうです。事実、大きく報道されていませんが、震災後、病疾患や自殺者は、どこの被災地でもでてきており、まさに心のケアを行政からも期待されている部分です。
宣教と支援のこれから
1000年に一度とも言われる今回の未曾有の大災害に対して、キリスト教団体は、すばやく対応したと思います。立ち上がりの多少の混乱などがあっても内外の教会、キリスト教団体の対応は、一定の評価をしていいのではと思います。今後、被災者たちの癒しを物資の支援だけでなく私たちは、当然、永遠の希望、福音による癒しの働きが求められてくるでしょう。
東北は日本の中でも福音に対しては堅いいばらのような地であるとも言われていました。しかし、すべてではないにしても、キリスト教団体や教会の献身的な支援が、被災地域に好意的に受け取られていることは感謝なことです。
今回、私どもが南三陸町の大森地区という地域への物資支援や、コミュニティーの回復の手助けとして地域の人たちの懇親のためのバーベキュー大会などを仙台SBSと協力してしたりして、この地区の人たちが好意と感謝の念を持っていただきました。一通のお手紙を紹介したいと思います。
<はがきの原文>
前略
東日本大震災におきまして、私の郷里である宮城県南三陸町に数次に亘り支援活動にお越しいただき誠にありがとうございます。実家が志津川大森地区にいる母が「キリストさん(母が言っていました)にはとても助けられた」と聞き、そちら様のブログに辿り着き遅ればせながら御礼のご挨拶を書かせていただいた次第です。
震災から7か月余りたちました。9月帰省時は4月帰省時と比較してみると瓦礫はかなり片付けられましたし、店舗も少しずつ再開して、それなりに改善しているものの基本インフラ(道路、港湾他)の再整備は手つかずの状態です。
復興への道のりはまだ長そうですが、どうか温かい眼差しで見守り頂ければ幸いです。佛教徒故、神の御加護等言える立場にはありませんが、本当に感謝しております。晩秋の候 何卒ご自愛下さいませ。
平成23年10月29日 シンガポールより感謝をこめて (H・S氏)
福音と支援を取引にする危険を避ける
南三陸町にいくと、私たちキリスト教関係の支援者たちを、地元の人たちは「キリストさん」と呼んでおります。
今回の震災は、大きな不幸な出来事でありますが、東北の宣教の扉が開かれていく機会となるかもしれません。しかし、私たちが<宣教と支援>を考えて働きを進めるとき、知恵深く、注意深く進めていかないと、震災の復興がすすむにつれて、キリスト教や福音に対してまた元の懐疑的な態度にもどっていくことになるでしょう。
かつて、第二次世界大戦の敗戦後、多くの欧米の宣教師たちが来て、当時の物資の欠乏の時に、またそれまでの封建的軍国支配から解放された多くの日本人が欧米の文化の雰囲気を持つ教会に殺到しました。確かに、そのような時代に救われ献身し牧師になった人たちもいました。
しかし、戦後の復興と共に、汐が引くように教会から人が去っていった経験を私たちはしっかりと心に刻みつけておく必要があります。支援と福音を取引のように使うことがあるなら、私たちは戦後の人が教会から去っていったことを学習していなかったことになります。
今回、東日本大震災という出来事を通して、多くの日本の教会や世界のキリスト教会は、これまで以上に福音の過疎化と呼ばれていた東北地方に注目しました。旧約の出エジプトの時代、イスラエルがアマレク人と戦っている間、モーセは祈りの手を挙げ続けました。しかし、挙げ続けることが困難になり、両側から祈りの手が下がらないように支える人が必要でありました。同じように、祈り始めることはそう困難なことではありませんが、祈り続けることには忍耐と信仰が必要です。同じように、東北の支援と宣教には異文化宣教と同じくらいの知恵と忍耐が必要なのではないでしょうか。
言葉を失う経験から得るもの
初めて、南三陸町に行ったとき、被災者たちに何を語れるのかと思いながら、支援に行きました。そして、私たちは被害の甚大さに言葉を失いました。「言葉を失う経験」、もしかしたら、自分にはその経験が必要なのではと思わされました。
聖書の中に「言葉を失う経験」をした記事があることに気がつきました。それは、あの祭司ザカリヤが神殿で妻のエリザベツが身ごもることを主から示された時、それを信じられなかったザカリヤが、話すことができなくなった記事です。彼は、しばらく人に話すこともできず、沈黙の時を経験しなければなりませんでした。その沈黙の中で、彼は主の取り扱いを受け、主の言葉を信じることができなかったことへの悔い改めが求められました。
この大きな震災の出来事を通して、多くの言葉を語る前に、主の前に黙して聴くことが求められているのではと示されました。そして、そこから「新しい言葉」を主からいただく必要があるのではと思われたのです。私たちは、この震災の経験からどのような「新しい言葉」を聴くことができるでしょうか。
あの南三陸の被災地に行ったとき、確かに音は聞こえるのです。自衛隊がガレキをかたづけているブルドーザの音、自動車が通る音、しかし、人の話し声が聞こえない。生活の音が聞こえませんでした。奇妙な沈黙が支配しているのです。その沈黙の経験を通して主から新しい言葉を聴き取りたいと今も願わされております。
(2012年5月発行No.42掲載)