私は、母がクリスチャンなので幼い時から教会に行くこと、礼拝すること、祈ることが当たり前であった。教会付属幼稚園へ通っていたので3歳から毎日教会へいく日々であった。幼稚園は、毎日礼拝があり、信仰教育としては申し分ない環境であった。
また、小学生の時の教会学校では毎年皆勤賞、中学1年のイースターには受洗。家庭礼拝も、毎日のように教会へ奉仕にいく母と共にウイークデーに教会に行くことも、毎週の礼拝も欠かさなかった。母はよく祈り聖書を読む人で、その模範的な姿は今なお健在である。
ただ、教会学校から大人の礼拝(当時の教会ではそういうイメージだった)に、毎週出席するというのは、葛藤があった記憶がある。特に、教会学校にきた友だちから教会帰りに遊びに誘われた時、行きたかったと思った。また、試験中などは勉強をするために帰宅したかった。そういう葛藤の中にありながら、出席していた礼拝であったが、出席の姿は、決していいとはいえない姿ばかりでよく寝ていた。それでも、礼拝の席に座っていることが大事だと信じて座っていた。高校生になると反抗期や教会が分裂の危機に陥ったこともあり、教会に行くことは戦いとなっていった。礼拝にいかねばならない理由がわからなくなったある日、「もう教会には行かない」と、母に告げた。母は、「●●は、何のために教会に行っているの?」と聞いた。「何のために教会に行っているのか?」という問いは、私の中で大変大きいものとして聞こえた。自分は主イエスがいなかったら、すでに死んでいただろうと自覚していたし、主イエスを信じないつもりも否定するつもりもなかった。けれども、当時の教会が平和ではなくていやだったのだ。それで教会に行きたくないと思った。でも、私は、この「何のために教会に行っているのか?」の問いの前に立たされた時、母にではなく主に問われたような気がした。自分が楽しいから、自分のために教会に行くのではない。主に従うのだと思いが変えられた。
なぜ、そう思いが変えられたのかと言えば、それはすでに与えられていた信仰が働いた、聖霊の導きとしかいえない。すでに洗礼を受けていた事実はとても大事であった。それも、小さい時から教会にいたから当たり前にということではなくて、洗礼の恵みを自覚的に受けていたゆえだ。そして、日々の祈りと聖書を読むこと、賛美をすることは力だった。
幼い時から、一人のキリスト者として、教会員としてのつとめを果たし、教会員としての自覚をもつこと。福音の基本、聖書の基本が教えられることが大切だと思う。子どもや青年たちの言葉に対して、「なぜそう思うのか?」というストレートな問いをすることが彼らを助けるのではないだろうか? そして、対話が必要だろう。もしも、教会に行きたくないと私が言った時、「そういう時期もあるよね、そういうこともあるよね?」というあいまいな理解を示されたら、私は行かなくなっていたかもしれない。厳しいようでも、聖書にそってはっきりしたことを言ってくれる、真実な言葉で対話してくれる人が必要なのではないかと、思っている。
(2010年2月発行no.39掲載)